新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

日本代表がガーナに負けた

2018-05-31 08:44:58 | コラム
遺憾ながら予想通りだった:

監督を替えても選手が短期間に急成長する訳がないのだから、大きな変化がなくても当然だと思っていた。マスコミどもは「ザックジャパン」だの「ハリル・ジャパン」だのと他人様の名字を勝手に短縮した失礼な愛称を奉る傾向があるが、今回は素直に「西野ジャパン」と来た。その西野朗監督が率いる新招集メンバーでの第一戦が雨の中昨夜横浜の日産スタジアムで行われた。

招集した顔触れはハリルホジッチ氏の好みよりは(香川、本田、岡崎を入れただけでも)数段マシだとは評価した、だが、何処の国のテイームと試合をしても結果は見えていると思っていた。特に前半に起用された顔触れを見れば、ゲームを組み立てるパスを出す起点になる者が不在だったので、余り期待できなかった。そこで先ず感じたことは「香川に(栄光の?)の10番を与えた西野監督は本気で香川を信用していないのでは」だった。

試合の結果をここであれやこれやと言うまでもないと思う。私が予想した通りで選手たちは「相変わらずパス回しの為のパパスと責任逃れのパス交換に集中する悪癖から脱却しておらず、相手のデイフェンス人を切り裂くような「これで決めてやろう」という意図を持ったパスが出ていなかった。解説者もアナウンサーも未だに長友や酒井高徳等のオーバーラップとか言う上がりを有り難がっていたが、それでも何の効果も結果も出なかったではなかったか。

後半に香川を入れ岡崎を出す布陣に変えて暫くは活気があるパス回しが出来るようにはなったが、折角形が整っても「惜しい」という決まらないシュートばかりでは何の為にもなっていなかった。あれでは「得点力不足」ではなく「得点能力の欠如したFWばかりの集団」に過ぎない。誤解のないように申し上げておくと「西野新監督の責任ではない」のである。だが、もしかすると、あのようなサッカーしか出来ないようにした技術委員長(って誰だったか)の責任は重大だと思う。

個人的な批判もしておこう。私は解説者やアナウンサーが有り難がるほど大迫を評価していない。決定力がある訳でもなく力強さを感じさせてくれないから。宇佐美も原口も一頃の輝きがない。ハリルホジッチ氏に骨抜きにされたのか。以前から指摘してきたが「香川君はドイツにいて回りに上手い者が沢山いれば一つの駒として輝くが、日本代表では周りが下手で彼を活かす頭べを知らず、彼に活かして貰い方が解らないので」なのである。岡崎を論評するほど球が回ってこなかった。

本田をどう扱うのか、西野監督も迷っておられるだろう。矢張り香川と一寸似たところがあり、周りを如何に活かすかが出来ていないし、それかあらぬか今やほとんど役に立っていないとすら見えるのが気の毒だ。長所がフリーキックだけとなってしまったのでは、フットボールではないのだから、ベンチに置くか、「何時かはやってくれるだろうと期待して最初から出しておく」しかない。ドイツでは活躍できている武藤も日本代表に入ると目立たないのは香川と同じ理屈か。

本日、西野監督が3人落とす発表をするようだが、最後まで出ていた大島は何にも目立った働きがなかったが、あれは残すという意味かな。私は川島というGKは以前から評価していない。昨夜も難しい場面で飛び出してPKになってしまった。世界にあの程度のGKしかいないのかと思われるの恥ずかしい気もするが、西野監督はどう思っておられるのかな。


関東学連が日大フェニックスを処分

2018-05-30 08:11:29 | コラム
長年のフェニックスファンの思い:

30日は朝から薄曇りで、午後には雨が降ると予告されている陰気な天候。そういう日にも朝から各テレビ局は「日大フェニックスの悪質タックル問題」を採り上げて報じ、一層気分を盛り下げてくれる。29日の夜には関東学連が記者会見を10時過ぎまで開催し、この問題に終止符を打ってくれそうな日大フェニックスの処分を公表していた。NHKの9時からのニュースでは中継してくれたし、テレ朝も追いかけてくれたので、処分案を聞くことが出来た。

処分の内容は概ね想定の範囲内だったが、そこに至るまでの調査で「誰があの関学のQBを負傷させる指示を出し、どのように実行されたかについては、言わば初めて真相が公表されたようだ」と思って聞いていた。学連の調査委員会は概ね宮川君の記者会見での告白を真実と認定していたと聞こえた。そういう結果が出ていれば、内田前監督と井上前コーチに除名の決定が下されたのは不思議ではないというか順当だったかと思っている。

マスコミ報道では「もう一人のコーチも処分」とあったのが森ヘッドコーチだったのも、驚きでも何でもなかった。学連の処分案に至るまでの説明は、私がここに云々する必要はないと思う。新聞をお読み願えれば詳細が報じられているのだから。

長年のフェニックスのファンとしては何とも気が重いというか憂鬱というか情けない気分に陥り、滅入っていた3週間が漸く終わったか、ではなく終わりの始まりかも知れないなと思わせてくれた発表だった。長年にわたりフェニックスのフットボールの観戦を楽しんでいた身からすれば、悲しくも情けない結果になってしまったと思う。内田前監督については、それほどの知識はないが、ある古手のOBの方が「全ては監督とコーチの問題だったのではないか」と言われていたのも印象的だった。

家内も「何故この問題があそこまで大きく連日マスメデイアが採り上げるような社会問題のようになってしまったのか」と嘆いていた。私は既に何度か指摘してきたように「この件では如何に擁護しようにも明らかに日は日大側にあるので、仕方がないような事態にまで至ったのだ」とも考えている。だが、連日連夜各テレビ局が所謂専門家や体育会とな何かをご存じとは思えない有識者までを動員してご高見を賜ったので、事態は急速に「日大は悪」のような世論が形成されたかとすら考えさせられてきた。この傾向に対しても反論できる余地はほとんどないと、私は危惧している。

私は長年相撲界を評して「我々が住む一般社会とは異なる江戸時代から形成された歴史と伝統に輝く独自の文化、即ち言語・風俗・習慣・思考体系を有する世界であり、我々の常識に基づいて彼らを批判するのは適切ではない」と、唱えてきた。そして、21世紀の今、事態がここまでに至れば、体育会の文化も一般社会から途絶したところにあるのではないかと危惧させられる点が多々あると思うようになった。

即ち、「監督やコーチたちと部員の間にコミュニケーションが取れていないのが問題」などという論を唱える有識者までが現れる時代になってしまったのだ。既に回顧したが、私は旧姓中学・高校の6年間で蹴球部の監督と個人的な会話などした記憶がない。それでも戦後の第1回国体で優勝し、第3回大会では準優勝だった。そういう「上意下達」が絶対的な基準であった体育会の文化を変えねばならないという議論を巻き起こそうという世論の兆しも見えてきた。

そういう論調が出てきた時代に向かいつつある時に、何もフェニックスだけに限られて問題ではないと思うのだが、体育会の在り方を変えねばならないのか、試行錯誤で進化させていくのか、指導者たちは真剣に考えねばならぬ時代になったようだ。だが、50歳を過ぎたような監督やコーチが現代のデイジタル化されたICT化が進んだ時代の価値観が異なる若者たちの心をどれほど理解し認識できるのだろうか。問題はその辺りも含んでいるような気もするのだ。


5月29日 その2 日大フェニックス問題の影響がここまで及んだか

2018-05-29 16:16:31 | コラム
孫が来年は大学進学なので:

29日にジムの浴室で顔馴染みの都内の野球の強豪校のOBと語り合った。偶々話題が目下全マスコミを挙げて報道合戦を展開している日本大学フェニックスに及んだ。運動部の経験者である彼は「歴史と伝統がある運動部の経験がない者たちにあそこまで根掘り葉掘り採り上げられてはどうにもならない。大体我々がいた世界では部員が監督と語り合えるようなことはなかったが、彼らはそうとは思っていないのも困ったことだ」と、言うなればフェニックスに対して一定の理解を見せていた。

だが、彼はここまでで話題を変えて「実は、今孫に困った問題が起きている」と切り出した。それは「孫が折角日本大学の付属校に入学して来年は大学進学なのだが、あの悪質タックルの一件以来日本大学には大いなる逆風が吹き、大学生には就職活動にも支障を来している面があると聞いている。それでは、果たしてこのまま日本大学に進学させるのが適切であるか否かで迷っているのだ」ということだった。

私も一部の就職活動にはそういう難しい事態が起きているとの報道は承知しているが、この件のように未だ3乃至は4年先の就職のことまで祖父としては悩んでおられると聞いて、あのフェニックスの件の影響がここまでに及んでいるのかと、心中密かに驚きはした。だが、連日連夜各テレビ局が結果的には同じ事の繰り返しにはなっている面もあるが、あれほど日本大学を色々な角度から分析し且つ批判してみせれば、高校生の父兄や祖父母までが心配される事態となるとはと、マスコミ報道の影響に今更ながら脅威を感じたのだった。

だが、あの宮川泰介君の記者会見以降、日本大学本体とフェニックスの対応は決して世間というか世論というかマスコミ論調を満足させうるようなものではなかったと、マスメディアや専門家や所謂有識者たちが批判しているのだ。それを聞けば(見れば?)不安感を覚えらられるのも無理はないかと思う次第だ。そこに加えて、今夜には関東学連の内田前監督と井上前コーチとフェニックスそのものに対する処分が発表されるという。私は日本大学の理事会には事がここに至れば、決然として立ち上がって事態を解明して見せて頂きたいとは思ってその動きを注視している。


剛速球勝負か駆け引きか

2018-05-29 08:08:36 | コラム
トランプ大統領対金正恩委員長:

一旦は流れたかに思わせたこの歴史的な「トランプ大統領と金正恩委員長の首脳会談」は、金正恩委員長の何処まで本気かと思いたくなる譲歩かとも思える歩み寄りに、韓国の文在寅大統領の尽力もあって、当初の予定通りの6月12日にシンガポールで開催の方向に進んでいるようである。その限りでは結構なことだろ思う。

私には大方の報道機関は「トランプ大統領はビジネスマンである」との大前提で報道しているように思える。確かに不動産業を中核に多くの事業に進出しておられたのは間違いないと思う。ではビジネスマンであれば駆け引きをするのかということだ。この会談は文在寅大統領と金正恩委員長の南北首脳会談の結果を受けて韓国の使節がトランプ大統領に「金正恩委員長が会談を望んでいる」と報告したのに対して、トランプ大統領が即断・即決したものだった。

そして開催日と場所が決まるまでにアメリカとDPRKの事務方が何度も会談して詳細且つ綿密な打ち合わせをしていたと理解している。だが、事が進むにつれて金正恩委員長は持ち前の駆け引きというか独特の交渉術がトランプ大統領にも通用するとでも思い込んだのか、素人の私が見ていても粗雑というか乱暴だなと思ってしまうような罵詈雑言を浴びせるなど無用としか思えない戦術に出ていった。あれでは「会いたかったら会っても良いが」と切り出して反応を見るつもりかと思わせた。

ところがトランプ大統領も強かで、「そういう戦術に出るならば、貴方の本気度と真剣さの度合いを確かめるぞ」と言わんばかりに、単純明快な手法で「残念ながらキャンセル」と野球用語を借りれば「直球勝負」に出て行かれた。それでなくとも、アメリカは過去にDPRKの駆け引きというか前言を翻す不誠実さというか虚言癖に手を焼いてきたのであるから、トランプ大統領は「それならば止めるか」と打って出られたのかと思って眺めていた。私には駆け引きとは見えず、真っ向からの「これを言うことで何か失うか」と「論争と対立」を怖れない手法と解釈した。

そこから先はより一層興味深かった。金正恩委員長は文在寅大統領に「形式は問わないから至急会談を」と訴え出て、文在寅大統領のトランプ大統領への仲介を依頼したようだった。その様子を見れば如何にもトランプ大統領の真っ向からの剛速球に恭順の意を表したとも採れるだろう。だが、私は如何なる手段を弄しても会談が実現しさえすれば、トランプ大統領に直接に非核化の過程や体制の維持を訴え出られるのであるのでそこを活かすべしと思ったと考えた。もっと言えば、会談が出来れば、そこでまた更なる駆け引きにも出られるのだ。一見下手に出たようだが、名を捨てて実を取る作戦のようにも思えなくもない。

私は未だ実際に6月12日に会談が実行されるか否かは解らないという見方を採りたい。だが、金正恩委員長としては会談は色々な意味で実現せねばならない点が多々あるので、暫くは低姿勢で臨んでいくだろうと見ている。トランプ大統領も駆け引きでも何でもなく、金正恩委員長の本気度を確認し続けて行かれると思っている。それは「全てのオプションがテーブルの上に」とは言われても、私は本気で軍事力行使をお考えとは思っておられないと見ている。

何れにせよ、残された2週間足らずの間にトランプ大統領が更なる剛速球を投じても金正恩委員長を抑えきられるか、または金正恩委員長が如何なる駆け引きのような手段に打って出るかは大いなる見物と言えば失礼だろう。だが、両首脳が如何にして会談を実現させる努力乃至は歩み寄りを見せられるかに私は大いなる興味と関心があるのだ。私は事 unpredictable という点では、金正恩委員長の方が読みやすいようで、そうでもない駆け引きをするか虚言を用いるような気がするのだが。何分にもDPRKには過去の忌まわしき実績があるのだから。

5月28日 その2 あー、勘違い

2018-05-28 14:15:17 | コラム
外国語の能力が先ではない:

28日の朝にテレ朝だったかで木村拓哉と工藤静香夫妻のインターナショナルスクールに通わせている15歳の娘さんが、何だったかにデビューするのだという件を採り上げていた。この娘さんは英語とフランス語だったか(だったかばかりで申し訳ない)できると、女性キャスターの1人が如何にも素晴らしいことのように羨ましがって見せた。

私は何故か知らないが、ある程度名を為したテレビタレントというのか芸人はその子弟をインターナショナルスクールに入れるか外国に留学に出す傾向があるようだと思って見ている。では、彼らの他に誰がいるかと訊かれれば、即座に思い出すのは関根勤が矢張り娘さんをカナダの大学に留学させ優秀な成績で卒業したと聞いた気がする。ところがこの娘さんは折角の成績と英語力がありながら確か韓国の芸能人と結婚してしまったようだ。

私がここで言いたいことは「外国語、就中英語が話せるようになることを第一義に考えるのは誤りだとまでは言わないが、優先順位を下げて考えるべきだ」なのである。それに余計なお世話だろうが、我が国の多くのインターナショナルスクールは各種学校であって、我が国の学校教育の仕組みの枠外にあるのだ。だが、何故か彼らは、例えば帰国子女等の美しい発音だけを聞いて「これぞ国際化の時代に備える道」と思い込む傾向があるように見える。

勿論、美しくて且つ正確な発音で英語が話せるのに越したことはない。だが、私が知る限りでの帰国子女の方々が悩むことは「我が国の学校教育の英語」という文化の中に入れられると、英語の勉強そのものに限りなく悩まされるのだそうだ。即ち、発音が良いことや「会話ができること」等は学校教育の英語で良い成績を挙げることには何の助けにもならないという冷厳な事実である。

それだけではない。都内の某有名私立大学で「英語」を教えておられたアメリカ人は “Kikoku shijos don’t know what English is.”とまで酷評した。それだけではない。私は何人もの成人した帰国子女に「小学校入学前ででアメリカにいて普通に英語が解ったが、今となっては全く何も覚えていない」と嘆いたのを聞いている。

帰国子女に拘り過ぎたが、私が指摘したい問題点は「ただ単に英語が話せるとか会話ができるだけではなく、その外国語能力を海外に出ても活かせるかだけの教養と論理構築の力、諸外国と我が国との間に存在する文化の相違点と思考体系の違い等々を認識する能力を備えることに努力する必要を認識すべきだ」なのである。

換言すれば「自国の文化とは如何なるものかというか、自分の足下も立ち位置も見えずして国際人などにはなり得ないのだ」と知るべきだということ。その為には外国語の能力就中相当程度以上の英語力が必要なのは間違いない。しかも、そういう自覚が出てくる為には「欧米の諸国と我が国との間には歴然たる文化の違いがある」と認識できねばならない。

不肖私もアメリカの会社に転進して間もなくは容易に「文化の違い」が認識できずに「何でこうなってしまうのだろう」と深刻に悩まされた事柄が多かったのだった。そして、来日する本部や工場の連中が「文化の違い」の認識が欠如している為に犯す失敗が多いことに気が付いて、副社長兼事業本部長に「日本とアメリカの企業社会における文化の違い」のプレゼンテーションを是非やらせて欲しいと申し出たのは、何と転身後15年目だった。

これは自慢話をしようと思って指摘しているのではない。私があらためて強調したいことは「アメリカやヨーロッパの世界に入って少しでも成果を挙げようと思うならば、外国語の能力を第一義に考えるのではなく、それなりの教養と討議や討論の際の論旨の構築能力に加えて彼我の文化の相違等を認識できてから進出すべきではないのか」なのである。そしてそこには十分なる外国語能力の裏付けが必要なのは言うまでもないこと。

遺憾ながら、我が国の英語教育にはそういう問題点への配慮があるとは見えない点だ。そう指摘する根拠は大学入試センター試験の英語には来年から(?)TOEICやTOEFLや英検等の点数を当てると報じられていた事にある。数年前にPresident誌が掲載した大手企業の人事担当者の座談会に

「当社はTOEICの点数は問題にしていない。600点にも満たない者がその論思の構築と自己表現の高い能力で、海外市場で優れた実績を挙げたとの実例がある。英語がペラペラと話せるかどうかの問題ではない」

と語っておられた。さもありなんと思って読んだ記憶がある。そういう例の他に「TOEICの成績は優秀だったが」という実際に外国に行かれて通用しなかった嘆きも聞いている。これなどは更に誤った「外国語の能力優先」の例だと思うのだ。結論めいたことを言えば「如何なる目的で外国語を学ぶのか」である。無目的でただ単にペラペラになって何の御利益があるのかということだ。即ち、掲題の「勘違い」なのである。