高校生に小説の構造について説明しました。次のような内容です。
いったい小説って何なのでしょうか。「語り手」と「作者」の関係を考えながら小説の構造をかんがえてみましょう。
《第1段階》
小説の骨格には話の筋(ストーリー)があります。具体例として次の桃太郎の冒頭部分を使ってみましょう。
むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。
ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ選択にいきました。
この筋だけの話(ストーリーだけの話)を第1段階とします。いわゆる「物語」の状態です。
《第2段階》
さて、この話を誰かが誰かに語り聞かせる場面を想像してみてください。そのとき「語り手」は少し聞き手を意識して語り始めます。
きょうは花子ちゃんにおもしろいお話しをしてあげるね。
むかしね、むかしっていうのはね、花子ちゃんが生まれるずっと前のことだよ。
花子ちゃんが生まれるずっとずっと前にね、田舎の村にね、おじいさんとおばあさんが住んでいたんだ。
おじいさんはね、おばあさんととっても仲良しでね、ふたりっきりで生活していたけど、毎日毎日働いて、幸せだったんだ。
秋になってきてね寒くなってきたんだと思うんだけど、昔って枯木に火をつけてストーブにしてたんだけど、その枯木を準備しなければならなくなってね、おじいさんは山に枯木を探しに行ったんだ。
おばあさんはね、今はどの家だって水道があるけど、昔はなかったから、洗濯しに川までいったんだ。
なんて話をし始めます。これは語り手が聞き手を意識して聞き手に理解しやすいように筋(ストーリー)に介入しているわけです。これを第2段階とします。「語り」の段階です。
《第3段階》
次第に語り手は介入の度合いを高めていきます。その具体例を書きます。
トンビが輪を描いている。北からの風がゆるやかに流れている。風は山の上の木々を赤く染め始める。秋の空は高く澄んでいた。
山のふもとに小さな家がある。その小さな家で老夫婦が生活をしていた。家といっても今の感覚から言えば小屋である。雨風を防げばそれでいいという建物である。その頃のそのあたりに住む人々はそれが当たり前の家であった。
科学という言葉のなかったころである。誰もが神を信じていた。神の力で生かされていると信じていた時代だ。彼らは死は怖くなかった。いや、死は怖くないというのを建前として生きていた。かれらは静かに生きていた。子供のいない老夫婦にとってそれが生きるということであった。
この時期になると冬を越す準備をしなければならない。年老いた男は山に枯木を取りにいく。男は年を経るにしたがって体が動かなくなることを感じていた。背中に痛みを感じて生きていくことに苦しさを覚え始めていた。体のいたみは心を締め付け始める。漠然とした不安。
「ちくしょう。」
男は山に向かって一言叫ぶ。その叫び声が返ってきたとき、涙があふれてくる。
年老いた女は川に洗濯に行く。女にとって耐えることが生きることだった。この時期水が冷たいのは知っている。しかし、それを悔やんでいてはいけない。いつも自分を殺すことだけを心掛けてきた。
例えばこのように語り手はどんどんストーリーに介入していきます。最初のほうでは聞き手に視点の誘導をしています。そしてストーリーを壊さない程度に勝手に設定を作り上げていきます。そして登場人物の心を描き始めます。
このように、語り手はどんどん第一段階の筋(ストーリー)に介入して脚色していきます。ここまでくるとほとんど小説と言っていいですね。
《一人称小説と三人称小説》
さて右の例は視点が上からの視点です。このような語りの小説を三人称小説といいます。しかし小説にはもう一つの語りの小説があります。それは一人称小説です。これは語り手が「私」になる小説です。たとえば「おじいさん」が語り手だったらどうなるでしょう。
妻は洗濯にでかけた。私は家にひとりになった。何もすることがない。ひまだ。ひまだからと言って、何もしないわけにはいかない。ひまなときに何もしないと、ひまが私を苦しめ始めるからだ。年を取るとその苦しみが一番つらい。だから無理やり仕事を見つける必要があった。山に柴刈りにいくことにした。とは言え、一冬分の柴はすでにある。これ以上の柴はもういらない。柴の山が夢に出てくるのもつらい。しかしそれは「ひま」よりはマシだ。「しば」は「ひま」よりまし。私の一日はそれを考えているだけだ。
こういうのが一人称小説です。この一人称小説は視点がはっきりしているという特徴があります。右の場合、おじいさんが見えるものしか描けません。だからおばあさんの心情は書けなくなります。
そして語り手が筋(ストーリー)にどのように介入していくかは、作者が決めているのです。小説家の作者というのは、語り手に筋(ストーリー)の語り方を演出していく総合プロデューサー的な役割をしていることがわかります。逆に言えば、語り手の介入の仕方に作者の意図が表れるといっていいのです。
いったい小説って何なのでしょうか。「語り手」と「作者」の関係を考えながら小説の構造をかんがえてみましょう。
《第1段階》
小説の骨格には話の筋(ストーリー)があります。具体例として次の桃太郎の冒頭部分を使ってみましょう。
むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。
ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ選択にいきました。
この筋だけの話(ストーリーだけの話)を第1段階とします。いわゆる「物語」の状態です。
《第2段階》
さて、この話を誰かが誰かに語り聞かせる場面を想像してみてください。そのとき「語り手」は少し聞き手を意識して語り始めます。
きょうは花子ちゃんにおもしろいお話しをしてあげるね。
むかしね、むかしっていうのはね、花子ちゃんが生まれるずっと前のことだよ。
花子ちゃんが生まれるずっとずっと前にね、田舎の村にね、おじいさんとおばあさんが住んでいたんだ。
おじいさんはね、おばあさんととっても仲良しでね、ふたりっきりで生活していたけど、毎日毎日働いて、幸せだったんだ。
秋になってきてね寒くなってきたんだと思うんだけど、昔って枯木に火をつけてストーブにしてたんだけど、その枯木を準備しなければならなくなってね、おじいさんは山に枯木を探しに行ったんだ。
おばあさんはね、今はどの家だって水道があるけど、昔はなかったから、洗濯しに川までいったんだ。
なんて話をし始めます。これは語り手が聞き手を意識して聞き手に理解しやすいように筋(ストーリー)に介入しているわけです。これを第2段階とします。「語り」の段階です。
《第3段階》
次第に語り手は介入の度合いを高めていきます。その具体例を書きます。
トンビが輪を描いている。北からの風がゆるやかに流れている。風は山の上の木々を赤く染め始める。秋の空は高く澄んでいた。
山のふもとに小さな家がある。その小さな家で老夫婦が生活をしていた。家といっても今の感覚から言えば小屋である。雨風を防げばそれでいいという建物である。その頃のそのあたりに住む人々はそれが当たり前の家であった。
科学という言葉のなかったころである。誰もが神を信じていた。神の力で生かされていると信じていた時代だ。彼らは死は怖くなかった。いや、死は怖くないというのを建前として生きていた。かれらは静かに生きていた。子供のいない老夫婦にとってそれが生きるということであった。
この時期になると冬を越す準備をしなければならない。年老いた男は山に枯木を取りにいく。男は年を経るにしたがって体が動かなくなることを感じていた。背中に痛みを感じて生きていくことに苦しさを覚え始めていた。体のいたみは心を締め付け始める。漠然とした不安。
「ちくしょう。」
男は山に向かって一言叫ぶ。その叫び声が返ってきたとき、涙があふれてくる。
年老いた女は川に洗濯に行く。女にとって耐えることが生きることだった。この時期水が冷たいのは知っている。しかし、それを悔やんでいてはいけない。いつも自分を殺すことだけを心掛けてきた。
例えばこのように語り手はどんどんストーリーに介入していきます。最初のほうでは聞き手に視点の誘導をしています。そしてストーリーを壊さない程度に勝手に設定を作り上げていきます。そして登場人物の心を描き始めます。
このように、語り手はどんどん第一段階の筋(ストーリー)に介入して脚色していきます。ここまでくるとほとんど小説と言っていいですね。
《一人称小説と三人称小説》
さて右の例は視点が上からの視点です。このような語りの小説を三人称小説といいます。しかし小説にはもう一つの語りの小説があります。それは一人称小説です。これは語り手が「私」になる小説です。たとえば「おじいさん」が語り手だったらどうなるでしょう。
妻は洗濯にでかけた。私は家にひとりになった。何もすることがない。ひまだ。ひまだからと言って、何もしないわけにはいかない。ひまなときに何もしないと、ひまが私を苦しめ始めるからだ。年を取るとその苦しみが一番つらい。だから無理やり仕事を見つける必要があった。山に柴刈りにいくことにした。とは言え、一冬分の柴はすでにある。これ以上の柴はもういらない。柴の山が夢に出てくるのもつらい。しかしそれは「ひま」よりはマシだ。「しば」は「ひま」よりまし。私の一日はそれを考えているだけだ。
こういうのが一人称小説です。この一人称小説は視点がはっきりしているという特徴があります。右の場合、おじいさんが見えるものしか描けません。だからおばあさんの心情は書けなくなります。
そして語り手が筋(ストーリー)にどのように介入していくかは、作者が決めているのです。小説家の作者というのは、語り手に筋(ストーリー)の語り方を演出していく総合プロデューサー的な役割をしていることがわかります。逆に言えば、語り手の介入の仕方に作者の意図が表れるといっていいのです。