今日の朝日新聞の「折々のことば」で日本語学者の森山卓郎さんのおもしろい発見が紹介されている。
感覚について言えば、不平不満が「形容詞」には渦巻いているようでもある。(森山卓郎)
色名は無数にあるのに、まずい、辛い、苦い、酸っぱいなど、味覚を表す形容詞は意外に少ない。昔の人は素材をそのまま食し、どうもいけない、というヤバい味をおもに「○○い」と表現したからではないかと日本語学者は推理する。痛いや痒(かゆ)い、暑いや寒いもそう。感覚とは微(かす)かな異変の察知のことを言うのかも。連載エッセー「日本語ノート」(「船団」第115号)から。(鷲田清一)
「快」の状態は当たり前なので「言葉」にならないが、「不快」な状態は当たり前でなくなるので、他者に伝えたくなる。なるほど、言われてみればその通りかもしれない。
それをさらに発展されれば、人間が話し合うということは、「不快」を訴え合うためなのかもしれない。そう考えれば人をほめるという行為は本来的な人間の活動とは違う。意識的に行わなければならない行動である。逆説的に言えば、だからこそ、人間的な行為なのかもしれない。
感覚について言えば、不平不満が「形容詞」には渦巻いているようでもある。(森山卓郎)
色名は無数にあるのに、まずい、辛い、苦い、酸っぱいなど、味覚を表す形容詞は意外に少ない。昔の人は素材をそのまま食し、どうもいけない、というヤバい味をおもに「○○い」と表現したからではないかと日本語学者は推理する。痛いや痒(かゆ)い、暑いや寒いもそう。感覚とは微(かす)かな異変の察知のことを言うのかも。連載エッセー「日本語ノート」(「船団」第115号)から。(鷲田清一)
「快」の状態は当たり前なので「言葉」にならないが、「不快」な状態は当たり前でなくなるので、他者に伝えたくなる。なるほど、言われてみればその通りかもしれない。
それをさらに発展されれば、人間が話し合うということは、「不快」を訴え合うためなのかもしれない。そう考えれば人をほめるという行為は本来的な人間の活動とは違う。意識的に行わなければならない行動である。逆説的に言えば、だからこそ、人間的な行為なのかもしれない。
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