朝日新聞に鷲田清一さんが連載している「折々のことば」で、有名な「荘子」の「胡蝶の夢」が紹介されていた。引用させていただく。
知らず、周の夢に胡蝶(こちょう)為(な)るか、胡蝶の夢に周為るか(荘子)
「いったい荘周が胡蝶の夢を見ていたのか、それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、私にはわからない」と、古代中国の思想家は言う。私の存在もしょせんは夢なのか、夢ならそれを見ているのは誰か。人はつい、自身もまた動物の一種であることを忘れるように、夢の語りもまた現実を仕立てる不可欠のパーツであることを忘れる。『荘子(内篇〈ないへん〉)』(森三樹三郎訳)から。
小説における「語り」を勉強しているうちに、自分自身を語るもうひとりの「私」に文学的な発明があるように思うようになった。近代とは「個人の時代」である。「個人」の生き方、考え方が小説の主題となる。作家は小説を書くときに自身をモデルに書くことが多い。自分の心理の動きが一番よく見えるからである。しかし自身の視点から自身を描くことは難しい。ひとりよがりになるからである。だから一度自分自身を離れなければならない。作家はその時、自身を客観的に見ることができる「もうひとりの自分」を探し出す努力を始める。夢の中の自分というのはその結果の一つの発明である。それは深層心理の自分であり、本当の自分である。夢の中の自分を探し求め、そこから自分を見つめなおすことによって、本当の「私」を描くことができる。
近代小説とは「私」を作り出すことが最大の使命であった。その意味で「荘子」の「胡蝶の夢」は興味深い。現代に生きる知恵は古代にあった。
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