とにかく書いておかないと

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夏目漱石の『草枕』を読む。6

2024-04-22 17:05:40 | 夏目漱石
第六章

画工は宿に戻る。宿の人はどこかへ行ってしまったのか静かである。芸術について考える。
 
ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである。

画家や詩人が表現したいものとは、自分の心を奪った物である。それを表現するためにはその物に同化する必要がある。しかし自分の心を奪っているものが明確でない場合がある。

余は明かに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。されども吾は動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍惚と動いている。

画工は漂っている。漠然とした恍惚感とでも言うしかない。何にも同化できない。このような境地をどのように表現すべきか、画工は考える。そして、「こんな嘲笑的な興趣を画にしようとするのが抑もの間違」だと考え、他の表現手段を考えるが、うまく行かない。

そうこうしているところへ現れるのは、やはり那美である。部屋の入口が開いている。そこに振袖姿の女が寂然として歩いているのである。何の目的なのかもわからない。ただ行ったり来たりしている。振り袖姿は華やかでありつつ、景色のなかに溶け込み、「有と無の間に逍遥している」ように感じられる。次第に雨が降り出し、女は雨の景色の中に消えていくように感じられる。雨に同化していき、自身が風景になるのだ。おふろで湯船に浮かぶように、今雨の中に漂っている。

この場面、那美はいったい何をしていたのであろう。画工の考えていることを受けて画工のために自分が恍惚とした情景を創り出そうとしているのである。画工も、わざとらしさを言及することもなく、それを素直に受け入れているようである。画工の思い通りの行動を那美がしているのである。
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