夏目漱石の『こころ』の授業をしながら気が付いたことを書き残しておくシリーズ。今回は下の四十八章、『ころろ』の中でも一番有名なKの自殺に気が付く場面です。
Kは「奥さん」から「先生」と「お嬢さん」の縁談を聞きます。それに対してKは一見落ち着いて対応します。その話を「奥さん」に聞いた「先生」は動揺します。そして「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」と感じます。なんとかしなければと思うのですが、「先生」は動くことができません。そうしているうちにKは自殺してしまします。
その時に襖がなぜ開いていたのかというのは常に問題になることです。これは想像力を掻き立てる問題です。
今年の授業では生徒はそこを問題にはしてくれませんでした。しかし別なところでおもしろい指摘をしてくれました。それが表題にした
なぜ「先生」はKの遺書を「わざとそれを皆みんなの眼に着くように、元の通り机の上に置」いたのか。
です。
「先生」は自分に対する恨みでも書かれていたら大変だと思ったので、遺書をすぐに見る必要がありました。「先生」にとって幸いなことに遺書には自分が悪人になるようなことは書かれていません。「助かった」と思った「先生」は、自分が第一発見者となることを回避しようとしたのでしょうか。それは変です。「先生」はすでに封を切っているから、「先生」が遺書を見ているというのは誰もが気づきます。だとしたらなぜKの遺書を「わざとそれを皆みんなの眼に着くように、元の通り机の上に置」いたのでしょうか。
Kの自殺の理由がK自身の中にあり誰のせいでもないということをみんなに知らしめたかったのだと考えるのが一番自然な解釈です。Kの遺書を「先生」が見るのは自然なことです。しかし哲学者然としたKの自殺の理由としてはとりたてて違和感のない理由を遺書の中に書いてあったので、隠す必要も、とりたてて誰かにこの遺書を知らせる必要もなかったのです。
死んだ人に対しても自分の損得で行動してしまう「先生」はこの後、この行動に罪悪感を抱かざるを得なくなります。
Kはどうでしょう。Kは自分の自殺の理由を明確に書いていません。すくなくとも他人のせいにはしていません。「先生」はここに大きな落差を感じることになります。そして時間がたつにつれ、その落差が「先生」を苦しめることになるのです。
この章ではもうひとつ疑問に感じることがあります。なぜKは遺書に「お嬢さん」のことを書いていなかったのでしょう。これもまた不自然です。「お嬢さん」が逆に意識の対象であったことが推測されます。この正解はわかるものではありません。しかし、このことも「先生」の混乱に輪をかける結果となってしまいます。疑心暗鬼というものはそういうものです。
疑心暗鬼に陥った人間の心の弱さがうまく描かれている場面です。
Kは「奥さん」から「先生」と「お嬢さん」の縁談を聞きます。それに対してKは一見落ち着いて対応します。その話を「奥さん」に聞いた「先生」は動揺します。そして「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」と感じます。なんとかしなければと思うのですが、「先生」は動くことができません。そうしているうちにKは自殺してしまします。
その時に襖がなぜ開いていたのかというのは常に問題になることです。これは想像力を掻き立てる問題です。
今年の授業では生徒はそこを問題にはしてくれませんでした。しかし別なところでおもしろい指摘をしてくれました。それが表題にした
なぜ「先生」はKの遺書を「わざとそれを皆みんなの眼に着くように、元の通り机の上に置」いたのか。
です。
「先生」は自分に対する恨みでも書かれていたら大変だと思ったので、遺書をすぐに見る必要がありました。「先生」にとって幸いなことに遺書には自分が悪人になるようなことは書かれていません。「助かった」と思った「先生」は、自分が第一発見者となることを回避しようとしたのでしょうか。それは変です。「先生」はすでに封を切っているから、「先生」が遺書を見ているというのは誰もが気づきます。だとしたらなぜKの遺書を「わざとそれを皆みんなの眼に着くように、元の通り机の上に置」いたのでしょうか。
Kの自殺の理由がK自身の中にあり誰のせいでもないということをみんなに知らしめたかったのだと考えるのが一番自然な解釈です。Kの遺書を「先生」が見るのは自然なことです。しかし哲学者然としたKの自殺の理由としてはとりたてて違和感のない理由を遺書の中に書いてあったので、隠す必要も、とりたてて誰かにこの遺書を知らせる必要もなかったのです。
死んだ人に対しても自分の損得で行動してしまう「先生」はこの後、この行動に罪悪感を抱かざるを得なくなります。
Kはどうでしょう。Kは自分の自殺の理由を明確に書いていません。すくなくとも他人のせいにはしていません。「先生」はここに大きな落差を感じることになります。そして時間がたつにつれ、その落差が「先生」を苦しめることになるのです。
この章ではもうひとつ疑問に感じることがあります。なぜKは遺書に「お嬢さん」のことを書いていなかったのでしょう。これもまた不自然です。「お嬢さん」が逆に意識の対象であったことが推測されます。この正解はわかるものではありません。しかし、このことも「先生」の混乱に輪をかける結果となってしまいます。疑心暗鬼というものはそういうものです。
疑心暗鬼に陥った人間の心の弱さがうまく描かれている場面です。
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