とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

そんたく

2017-03-26 06:40:59 | 社会
 大阪府の松井知事が森友学園問題について、「安倍総理大臣は忖度(そんたく)があったと認めるべきだ」と指摘したという。

 発言の内容は具体的には次の通りである。

 「この問題をどんどん油を注いでいるのは、皮肉にも僕は安倍総理だと思います。『忖度はない』と強弁をし続けるからそうなる。僕は、政治家というのは忖度で選ばれていると。この忖度に『良い忖度』と『悪い忖度』があるんです。要は忖度というのはおもんばかる、気を使う、相手の立場に立つということです。政治家なら当たり前じゃないですか。安倍首相は『悪い忖度ではない』と説明するべきです。」

 私はこれはおかしいと思う。忖度があったと認めるべきだという点は同感である。しかし、今回の問題を「悪い忖度ではない」というのは行き過ぎだ。森友学園の土地取得に関わる様々な役所側の配慮が単なる「忖度」で済まされてはいけない。あきらかに「悪い忖度」である。これが悪い忖度ではないとすれば、政治家の思うようになんでもできてしまう。政治家は役人の前で「独り言」を言えばいいだけになってしまうからだ。役人は政治家の「独り言」を忖度しなくならなければなる。これでは現状よりもひどくなるのは明らかだ。

 「忖度」ということばがいきなりクローズアップされた。松井知事はそれをいいことになんでも「忖度」ですませようとしている。「忖度」を隠れ蓑にしようとしているようにも感じられる。しかも「忖度」を社会的に認めさせることになる。

 マスコミは問題をしっかりと整理し、公平に冷静に報道してほしい。一方的な決めつけではなく、しかもわかりやすい報道をしてほしい。マスコミは「籠池劇場」という言い方をしているが、「籠池劇場」にしているのはマスコミのほうである。このままでは混乱のままうやむやになってしまう恐れがある。
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「口利き」とは?

2017-03-25 14:36:31 | 社会
 森友学園問題で、籠池氏と安倍昭恵さんの言っていることが食い違っている。これは私の個人的な意見であるが、両者の認識の違いから来ているものなのではないかとも思われる。

 籠池氏は昭恵氏に政治的な「口利き」を期待していた。しかし昭恵氏は自分は政治家でもないのだから、籠池氏のはことばを周りの役人に伝えても「口利き」にはならないと思っていた。そもそも「口利き」の意味も知らなかったという可能性もある。役人は権力者が何か言った場合、その意味を過大にとらえる習慣ができている。だからこのような問題が生じたのではないかと、私には感じられる。

 もしそうだとしたら、問題点は2つ。1つは安倍昭恵さんは「口利き」をする対象と言っていいのかということ。つまり、安倍昭恵さんが政治家のように権力者と言っていいのかということ。2つ目は、役人が政治家のいうことを過大に受け止めてしまう現在の日本の風潮である。政治家がああしろ、こうしろと決定的なことを言わなくとも、役人のほうが政治家の言うことを解釈し、政治家の思う方向に進めてしまうことが常態化しているのだ。これによって政治家がはっきりと何かを言わなくとも、政治家の思う方向に事がすすむことになる。罪に問われず、「口利き」が可能になってしまうのだ。

 今回の森友学園問題、茶番のような事件ではあるが、もしかしたら日本社会を見事に写し出したような事件なのかもしれない。
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春野菜(1年前の振り返り)

2017-03-24 21:58:26 | お題
 1年前のブログの振り返り。春の野菜の季節だ。年を取って野菜の味が恋しくなってきた。人間は野菜を食べるから人間なのではないかと思うようになってきた。


 好きな春野菜。
 まずは新玉ねぎ。サラダにいいですよね。一年中あればいいのにと思っていたら、ハワイに行ったらsweet onionという名前で売っていました。そうかあったかいところなら一年中採れるんだ。そういえば日本でも真冬ごろから手に入れられるうようになりました。そのうち一年中採れるようになり、「新玉ねぎ」という名前も変えなければならなくなるかもしれません。(ちなみに普通の玉ねぎはyellow onionnです。)
 キャベツ。春キャベツとアンチョビのパスタは我が家の春の定番です。
 ふきのとう。ふきのとうの天ぷらの苦さは春の味です。
 意外なところでは、初物のニラ。おひたしにしたら最高です。
 だんだん年を取ってきて、季節の野菜に喜びを感じるようになってきました。雪国の人間にとって春ほどうれしい季節はありません。
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翻訳調文体について(村上春樹と国語教育)

2017-03-23 20:03:11 | 国語
 1年前のブログの再掲です。1年前に書いていたことも忘れています。思い出すことも大切だと思い、再掲します。

 最近読んだ二つの本に不思議な関連性があった。ふたつの本というのは佐々木敦さんの『ニッポンの文学』という本です。もう一つは三森ゆりかさんの『外国語を身につけるための日本語レッスン』という本です。

 『外国語を身につけるための日本語レッスン』では、次のようなことが聞かれてあります。

日本語は主語や目的語の省略が当たり前である。そのためにあいまいな表現をあいまいなままに受け止めている。これでは外国語に翻訳することはできない。多くの外国語は主語や目的語を省略することはないので、明確に主語や目的語を意識していない文はありえない。

例えば川端康成の『雪国』の冒頭、
「トンネルを抜けると、そこは雪国であった。」
という一文。この文の主語を日本人はあいまいなまま受け止め、この主語が誰かを分析しようとも思わない。しかし、外国語に翻訳しようとするとこれを明確にしなければならない。トンネルを抜けたのは列車か、それとも男か。明確にしない限り文ができない。だとすれば、この主語を省略するかしないかは、それぞれの国の言語表現にとって大きな意味をもつことになる。

 以上のことは日本語が劣っている言語であるということでも、逆に優れているということでもありません。それを意識しないと翻訳ができないのであり、外国人とのコミュニケーソンはなりたちません。これではこれからのグローバル時代のコミュニケーション重視の時代にはそぐわないものになるということになるということを主張しているのです。

 さて、『ニッポンの文学』では、村上春樹が小説を書き始めたころ、最初に英語で文章を書いてそれを翻訳して文章を書いていたと紹介しています。それが村上春樹の文体になっていったのです。そしてその翻訳調と言っていいような文体は多くの人に支持されました。日本人だけでなく外国人にも支持されたのです。

 島田雅彦、高橋源一郎なども翻訳からスタートした作家です。彼らは文学を世界標準から見ていたのです。「文体」という概念から自由だったのかもしれません。

 私にとって文学とは文体でした。中身の思想性よりも文体のカッコよさのほうが優先されていました。だから私は以前、村上春樹にはほとんど興味がありませんでした。彼の文章はかったるくてしょうがなかったのです。でも、今、そのストーリーに少し興味が湧いてきています。

 私もすこしグローバル化してきたのかもしれません。
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神と科学(『カラマーゾフの兄弟』)

2017-03-23 12:54:13 | カラマーゾフの兄弟
 『カラマーゾフの兄弟』を少しずつ読んでいる。ようやく第5編「プロとコントラ」まで進んだ。ここで展開されるのは、3男アリューシャと次男イワンの宗教論争である。イワンは大学で工学を学んでいて、神を信じていない。アリューシャは宗教人である。

 私が面白かったのはイワンがここでユークリッド幾何学に言及したことである。ユークリッド幾何学というのは、われわれ人間が経験上正しいと信じて何の疑問も抱かなかった体系である。しかしユークリッド幾何学とは違うが理論的に成立する他の体系が証明された。非ユークリッド幾何学である。イワンの主張は次のようなものであろう。

 キリスト教というのはユークリッド幾何学的なものであり、実はもっと広いところに人間の真実がある。科学にこそ人間の真実があるのだ。

 『カラマーゾフの兄弟』が世に出たのが1880年ぐらい。ちょうど近代から現代への移行期だ。「常識」が「常識」として通用しなくなる時期、大きな時代の変革の時期である。『カラマーゾフの兄弟』はその時代と真正面に取り組み、格闘した小説なのだろうか。

 おもしろくなってきた。
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