とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「一番のがんは学芸員」

2017-04-20 07:21:17 | 社会
 山本幸三地方創生担当相が日本の観光振興に関して「一番のがんは学芸員」などと発言した。おそまつな発言だ。学芸員も観光マインドをもってほしいという意図だと釈明しているが、観光という流行に流されないのが学芸員の仕事であろう。なんでもかんでも経済に結びつけるのも問題だし、目先の利益しか考えられない打算的な発想も問題である。問題のある大臣が多すぎる。

 不易流行という言葉がある。不易とは変わらないこと、流行とは移り変わること、不易流行はその両方が大切だということである。観光に流されてしまうと、本当に大切なものが失われてしまう。学芸員は流行にまどわされまいと頑張らなくてはならない存在なのである。

 科学の世界でも、経済につながる実用的な科学技術を奨励し基礎研究をおろそかにする傾向があると聞く。しかし基礎研究こそが日本社会の土台である。日本は確かな基礎的な科学力があったからこそ、資源がないのにもかかわらず、世界の中で今の地位にいるのである。地道な努力が近年のノーベル賞の毎年の受賞につながっているのだ。

 古いものを馬鹿にしてはいけない。「未来は今」という言葉があるが、「過去は今」であり、「過去は未来」なのだ。そして「未来は過去」でもあるのだ。
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村上春樹『騎士団長殺し』③他者による認識のないところにイデアは存在しない

2017-04-19 05:34:24 | 騎士団長殺し
 村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その3回目。38「あれではとてもイルカにはなれない」から

 イデアである騎士団長が「私」に対して言う。
「イデアは他者による認識なしには存在しえないものであり、同時に他者の認識をエネルギーとして存在するものであるのだ。」
 それに対して「私」が騎士団長に言う。
「じゃあもしぼくが『騎士団長は存在しない』と思ってしまえば、あなたは存在しないわけだ。」
 騎士団長が答える。
「理論的には。しかし現実的ではない。なぜならば、人が何かを考えるのをやめようと思って、考えるのをやめることは、ほとんど不可能だからだ。」
 そして、次に騎士団長が言う。
「イルカにはそれができる。」

 人間は「私」という存在にしばられ、「私」の観念に行動が制御されて苦しめられていく。しかしこういう存在は人間という生き物の特性なのだ。人間が人間であることはこういうことなのかと考えさせる理論である。

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村上春樹『騎士団長殺し』②えがくこと

2017-04-16 18:32:23 | 騎士団長殺し
 村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その2回目。第1部を読み終わった。

 第1部を読んでいて感じたのは、この小説は明らかに「表現論」であるということだ。もちろん評論文ではないので、表現については小説のサブテーマの一つであり、それが作者のしゅちょうであるかどうかはわからない。しかし、主人公は表現について考え、それが作品の展開に大きな影響を与えているのはあきらかだ。

 主人公「私」は画家であり、肖像画を描く仕事をしていた。しかし妻と別れることをきっかけに肖像画は描かないことにする。そこに免色という人物があらわれる。免色は自分の肖像画を描くことを依頼する。その時「肖像画という制約を意識しないで自由に描」くことを要望する。「私」は受け入れ、免色の肖像画を描き上げる。

 一般的な肖像画は写真のようなものであり、対象者主体である。それに対して抽象画は表現者主体である。免色の望む肖像画は対象者と表現者の関係の中で生まれる絵である。これは小説そのものであろう。すばらしい小説は現実との関係性の中にしか生まれない。ここには作者の表現についての思いが描かれているのではないかというのが、今のところの見立てである。このような視点から「イデア」「メタファー」がどういう意味を持っているのかが見えてくるのではなかろうか。

 しかし、そういう見立てを超えて行くのが小説である。はたしてどうなるのか。楽しみである。
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劇評『フェードル』(演出・栗山民也 4月14日シアターコクーン)

2017-04-15 06:46:16 | 演劇
 学生時代に授業で読んだことがある『フェードル』が上演されるということで、ほとんど忘れていたがぜひ見てみたいと、シアターコクーンに向かった。古い戯曲なので退屈するのではないかという心配をしていたが、すばらしい舞台であった。

 『フェードル』は17世紀にラシーヌというフランスの劇作家の作品。ギリシア神話から題材を得ている。大竹しのぶ演じるフェードルは、今井清隆演じる夫テゼの留守中に、平岳大演じる義理の息子イポリートに恋をしてしまう。しかし、イポリートは反逆者の娘アリシーが好きであった。禁断の恋が悲劇を生むという話である。他の出演者はキムラ緑子、門脇麦、谷田歩、斎藤まりえ、藤井咲有里。

 禁断の恋による悲劇が展開していくなかで、感情と理性の対立という人間であるゆえの宿命的な罪が問われてく。すべての役者はまじめに言葉を自分のものとして発し、濃密な時間が過ぎていく。ラストシーンの美しさは残酷である。

 本当にいい舞台を見せてもらった。

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大学入試改革、国語の記述式導入について

2017-04-14 07:58:11 | 高校国語改革
 きょうの朝日新聞にセンター試験に代わって2020年から導入される新テスト「大学入学希望者学力評価テスト」の原案の記事が出ていた。

 注目の国語の記述式はセンターが民間業者に採点を委託し、80~120字程度で答える問題を3題程度出題することを検討中のようである。

 私は国語の記述式の導入は絶対に必要だと思っており、そういう意味では前進していると考えている。しかし、80~120字の記述ではその効果がどれほど出てくるのかが疑問にも感じている。民間業者に委託する形での採点になるので、かなり採点基準のはっきりとしたものになるに違いない。だとすると記述式と言いながらほとんど揺れのない解答しか得られないような問題にならざるを得ないのではないか。どのような問題を想定しているのか、はやくモデル問題を提示し、批判検討していく必要がある。

 この改革を失敗させてはいけない。それが私の強い思いである。私が何を言っても変わらないかもしれないが、これからもこの入試改革について自分の意見を発信していきたい。
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