とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

テロ等準備罪という名前だから賛成が多い

2017-04-25 13:22:44 | 政治
 「共謀罪」が「テロ等準備罪」という名前になって再び国会に提出された。国会の審議を見る限り、大きく変わったわけではなく、しかも法務大臣の答弁はめちゃくちゃなので、結局中身がどうなっているのかもわからない。このような法律でもむりやり通されてしまうのか。

 確かに世論調査では賛成意見が多い。これは「テロ」対策のためには必要だと考えている人が多いからである。私自身も犯罪組織があればそれを取り締まる法律は必要だと思う。しかし、この法律は犯罪組織とそうでない組織の境界線があいまいなままに提出されたもののように思われる。曖昧すぎるから大臣も明確に答弁できないのだ。こんなむちゃな法律だと理解したら賛成する人は大きく減るはずである。国民にレッテルだけで判断させようとする政府、官僚のおごりが見え隠れする。

 おそらくこの法律はテロ対策よりも、アメリカの情報戦略の一環としての意味のほうが大きいのではないかと思われる。安倍総理は日本のためにはアメリカとの同盟関係を強固にすると考えている人である。そしてアメリカの要求には無理をしても応えようとしているように思われる。TPP、普天間基地移転問題での対応、特定秘密保護法などはその流れのものであり、かなり強引な印象をうける。

 しかし、将来この総理は日本をアメリカに売った人という評価を得てもしょうなないのではないかという気もしてくる。

 いずれにしても「テロ等準備罪」に関してはもっと冷静なじっくりと時間をかけた中身のある議論を与野党ともにお願いしたい。
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村上春樹『騎士団長殺し』⑤イデアとメタファー

2017-04-24 08:16:45 | 騎士団長殺し
 村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その5回目。

 イデアとは社会的に形成されてきた抽象概念である。それに対してメタファーというのは個人が作り上げたものだ。どちらも実体のないものという点では共通しているが、イデアはすでにあるものであるのに対して、メタファーとは新たに作り上げるものであるという点で異なっている。

 このメタファーについて、自分がメタファーだと主張する「顔なが」は「ものとものをつなげるたけのもの」と説明させている。(「52オレンジ色のとんがり帽をかぶった男」)。つまりメタファーは関係を作り上げるものなのである。

 「私」が「メタファー通路」に入り、川まで来ると顔のない男がいる。その男はペンギンの人形と引き換えに「私」を舟に乗せる。その時にいう。「おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。ここはそういう場所なのだ。」

 イデアを殺し、メタファーの世界へと変化することは、世界との関わりを積極的に持とうとするとメタファーが生まれるということか。

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村上春樹『騎士団長殺し』④メタ認知と自己

2017-04-23 14:49:53 | 騎士団長殺し
 村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その4
回目。「43 それがただの夢として終わってしまうわけではない」から。

 人間は、誰でも通常は「自分」という存在を疑いもなく受け入れている。「自分」は「自明な存在」である。自分は当たり前の存在であり、何の疑問も感じずに受け入れている。小さいころ「自分」という存在に疑問を投げかけることはあるかもしれないが、そんな根源的な悩みは成長するにしたがってすぐに忘れてしまう。通常は自分は自分であり、それを疑ったり悩んだりしないまま大人になる。

 しかし、ある瞬間その自己同一性に違和感を持つことがある。『騎士団長殺し』から引用する。

「しかしその朝は、それらはなぜか私の手には見えなかった。手の甲も、手のひらも、爪も、掌紋も、どれもこれも見覚えのないよその人間のもののように見えた。」

 病気になった時など、非日常の中に身を置いたときなどに、自分を自分として見ることに違和感を感じ始めて、自己を客観視する経験を持つ。それがメタ認知体験である。メタ認知を体験したあと、そのメタ認知の意味を積極的にとらえる人間が出てくる。そしてそれを新たな自己の再生ととらえる。

 この章の最後を引用する。

「私は自由なのか? そのような問いかけは私には何の意味も持たなかった。今の私が何よりも必要としているのはあくまで、手に取ることのできる確実な現実だった。頼ることのできる足元の堅い地面だった。」

 当たり前の自己に対する違和感を抱いたときに、自己の存在意義を見つめなおし、自己をこの世界にしっかりと位置づけようとする。そうしなければ不安定だからだ。不安定なままでは生きてはいけない。

 人間は他者との関係の中で生きている。自分が自明の存在であり、何も疑問を感じていなかった時代には他者は必要としない。自己に対する自信を見失った時、初めて自分といす存在は自分だけでは成立しないことがわかる。そこで他者との関わりを積極的に試みなければいけないことに気づく。

 小説はいよいよ動き始める。それは「私」の再生のために必然的に動き始めるのだ。
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フィギュアスケートのジャンプ優遇は競技の本質を失う

2017-04-22 05:07:07 | スポーツ
 フィギュアスケートの国別対抗戦を見ていた。最近の得点はジャンプ優遇である。だから、高難度のジャンプだけをたくさん飛んでいれば得点が高くなる。これはフィギュアスケートの本質からかけ離れているのではないかと思う。

 ジャンプ優先になってしまうがために、体重が軽いほうが有利になる。女子は成長期前の選手か、極端に体の小さい選手ではないと対応しきれない。20歳を過ぎれば多くの選手が競技から離れざるをない。男子は女子に比べて成長期が遅いので、年齢は少し上がるが、それでも25歳を超えてまで現役で活躍している選手は少ない。スケーティングや表現力が磨きがかかってきて、すばらしい演技ができる人が競技に残ってくれないのだ。 だから見ていて面白い演技が少ない。

 もちろん、技術点と構成点があり、表現面は構成点でカバーしているわけではあるが、このバランスがもっと構成点が高くならないといけない。このままではフィギュアスケートが「体操スケート」になってしまう。

 私には高橋大輔も浅田真央も、このルールのせいで、これからというときに引退してしまったようにしか思えないのだ。
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「『である』ことと『する』こと」①(高校国語の教材を考えるシリーズ)

2017-04-21 19:04:24 | 国語
 これまでも高校の国語教材について批判してきた。今回は定番中の定番である丸山真夫氏の「『である』ことと『する』こと」について述べたい。

 丸山真夫氏は日本の代表的な政治学者である。「『である』ことと『する』こと」はとてもおもしろい評論であり、その意味では教科書に載ってもいいような文章である。しかし、次の2点において現在の国語の授業の教材としては疑問に感じる。

 1点目は論理性に乏しいと思われる個所が見受けられることである。その証拠と私が考えるのは指導書に記載されている要約が私の読み取りと違っているという点である。もちろんここまで生き残ってきた教材の指導書の記載が間違っているということは普通ならばありえない。だから、私が間違っている可能性は高い。しかし、あえてそこに疑問を投げかけてみたいと思っている。

 2点目は西欧の思想と日本の思想がステレオタイプになっていると思われることである。西欧であっても伝統的な「である」モラルが根強くのこっているはずであり、もしそれがなければ今日のようなEU離脱問題は起こらないはずである。逆に日本にも「する」論理が伝統的にあり、それが日本を日本として滅びずに残ってきた原動力になってきたのではないかと考えるのである。この点についても考えていきたい。

 わたしも教員生活が終わりに近づいてきているので、とにかく書いておかなくてはと思ってあえて問題提起していきたい。
 
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