村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その2回目。第1部を読み終わった。
第1部を読んでいて感じたのは、この小説は明らかに「表現論」であるということだ。もちろん評論文ではないので、表現については小説のサブテーマの一つであり、それが作者のしゅちょうであるかどうかはわからない。しかし、主人公は表現について考え、それが作品の展開に大きな影響を与えているのはあきらかだ。
主人公「私」は画家であり、肖像画を描く仕事をしていた。しかし妻と別れることをきっかけに肖像画は描かないことにする。そこに免色という人物があらわれる。免色は自分の肖像画を描くことを依頼する。その時「肖像画という制約を意識しないで自由に描」くことを要望する。「私」は受け入れ、免色の肖像画を描き上げる。
一般的な肖像画は写真のようなものであり、対象者主体である。それに対して抽象画は表現者主体である。免色の望む肖像画は対象者と表現者の関係の中で生まれる絵である。これは小説そのものであろう。すばらしい小説は現実との関係性の中にしか生まれない。ここには作者の表現についての思いが描かれているのではないかというのが、今のところの見立てである。このような視点から「イデア」「メタファー」がどういう意味を持っているのかが見えてくるのではなかろうか。
しかし、そういう見立てを超えて行くのが小説である。はたしてどうなるのか。楽しみである。
第1部を読んでいて感じたのは、この小説は明らかに「表現論」であるということだ。もちろん評論文ではないので、表現については小説のサブテーマの一つであり、それが作者のしゅちょうであるかどうかはわからない。しかし、主人公は表現について考え、それが作品の展開に大きな影響を与えているのはあきらかだ。
主人公「私」は画家であり、肖像画を描く仕事をしていた。しかし妻と別れることをきっかけに肖像画は描かないことにする。そこに免色という人物があらわれる。免色は自分の肖像画を描くことを依頼する。その時「肖像画という制約を意識しないで自由に描」くことを要望する。「私」は受け入れ、免色の肖像画を描き上げる。
一般的な肖像画は写真のようなものであり、対象者主体である。それに対して抽象画は表現者主体である。免色の望む肖像画は対象者と表現者の関係の中で生まれる絵である。これは小説そのものであろう。すばらしい小説は現実との関係性の中にしか生まれない。ここには作者の表現についての思いが描かれているのではないかというのが、今のところの見立てである。このような視点から「イデア」「メタファー」がどういう意味を持っているのかが見えてくるのではなかろうか。
しかし、そういう見立てを超えて行くのが小説である。はたしてどうなるのか。楽しみである。