これまでも高校の国語教材について批判してきた。今回は定番中の定番である丸山真夫氏の「『である』ことと『する』こと」について述べたい。
丸山真夫氏は日本の代表的な政治学者である。「『である』ことと『する』こと」はとてもおもしろい評論であり、その意味では教科書に載ってもいいような文章である。しかし、次の2点において現在の国語の授業の教材としては疑問に感じる。
1点目は論理性に乏しいと思われる個所が見受けられることである。その証拠と私が考えるのは指導書に記載されている要約が私の読み取りと違っているという点である。もちろんここまで生き残ってきた教材の指導書の記載が間違っているということは普通ならばありえない。だから、私が間違っている可能性は高い。しかし、あえてそこに疑問を投げかけてみたいと思っている。
2点目は西欧の思想と日本の思想がステレオタイプになっていると思われることである。西欧であっても伝統的な「である」モラルが根強くのこっているはずであり、もしそれがなければ今日のようなEU離脱問題は起こらないはずである。逆に日本にも「する」論理が伝統的にあり、それが日本を日本として滅びずに残ってきた原動力になってきたのではないかと考えるのである。この点についても考えていきたい。
わたしも教員生活が終わりに近づいてきているので、とにかく書いておかなくてはと思ってあえて問題提起していきたい。
丸山真夫氏は日本の代表的な政治学者である。「『である』ことと『する』こと」はとてもおもしろい評論であり、その意味では教科書に載ってもいいような文章である。しかし、次の2点において現在の国語の授業の教材としては疑問に感じる。
1点目は論理性に乏しいと思われる個所が見受けられることである。その証拠と私が考えるのは指導書に記載されている要約が私の読み取りと違っているという点である。もちろんここまで生き残ってきた教材の指導書の記載が間違っているということは普通ならばありえない。だから、私が間違っている可能性は高い。しかし、あえてそこに疑問を投げかけてみたいと思っている。
2点目は西欧の思想と日本の思想がステレオタイプになっていると思われることである。西欧であっても伝統的な「である」モラルが根強くのこっているはずであり、もしそれがなければ今日のようなEU離脱問題は起こらないはずである。逆に日本にも「する」論理が伝統的にあり、それが日本を日本として滅びずに残ってきた原動力になってきたのではないかと考えるのである。この点についても考えていきたい。
わたしも教員生活が終わりに近づいてきているので、とにかく書いておかなくてはと思ってあえて問題提起していきたい。