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とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石『坊っちゃん』を読みました。

2020-06-13 10:08:17 | 夏目漱石
 夏目漱石の『坊っちゃん』を40年ぶりくらいで読みました。たくさんの発見があり、たくさんの課題を与えられた読書でした。何度かに分けて書いていきます。

 今回は課題や発見を箇条書きで書いていきます。

①一人称小説
 『坊っちゃん』は一人称小説です。語り手は「おれ」です。この時期夏目漱石の作品は一人称小説が多い。ただし自分を示す代名詞が異なっています。『吾輩は猫である』の語り手は『吾輩』、『草枕』は「余」です。これらの語り手が、作者のどういう意図のもとに生まれたのか。作者は「おれ」を肯定的に見ていたのか、否定的に見ていたのか。作者と語り手の関係はどうしても気になります。今私が一番興味のあることです。深く考えていければと思います。

②戯画化された社会批判
 田舎の学校を題材にしていますが、日本の官僚機構を戯画化しています。うまく日本社会を表現していると思います。

③『坊っちゃん』という題名
 「坊っちゃん」は、清が主人公を読んでいた呼称です。その呼称を結末近くにに野だいこが言うのです。「勇み肌の坊っちゃん」という言い方でした。これが主人公の怒りに火をつけます。清と野だいこの「坊っちゃん」という言葉の落差は重要です。

④「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」
 この最後の一文がやはり気になります。「だから」ということは、主人公は「小日向の養源寺」の墓に入るということなのでしょうか。それはどういう意味があるのでしょうか。なぞを残したままこの小説が終わっています。この終わらせ方にはどういう意図があるのでしょうか。

 気になったことをいくつか書いてみましたが、まだまだありそうな気がします。書きながら考えていこうと思います。

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ラーメンの不思議(ドラマ『行列の女神〜らーめん才遊記〜』のおもしろさ)

2020-06-11 06:27:27 | TV
 今期は期待のドラマだらけだったのに、新型コロナウイルスのせいでほとんど始まってもいない。そんな中でテレビ東京のドラマ『行列の女神〜らーめん才遊記〜』は、単純なドラマなのだが、出演者が豪華でしかも題材がよく、おもしろく考えさせられることが多い。この新型コロナウイルスの中で最終回まで迎えられたのだから、奇蹟的なドラマだ。

 そもそもなぜ日本ではラーメンが「国民食」のように親しまれるようになったのだろうか。私は一番大きな出来事はインスタントラーメンの普及だと考えている。チャルメラ、出前一丁、サッポロ一番が日本人の食事を大きく変化させた。そしてカップヌードルである。手軽な食事が安価で手に入れられる。底辺の普及から始まった。

 インスタントラーメンの普及がきっかけとなりラーメン世代が生まれた。毎日のようにラーメンを食べる世代である。ラーメン世代はラーメンにこだわるようになり、「よりおいしいラーメン」を求めるようになる。有名ラーメン店が生まれ、中には経営戦略を駆使して企業努力をするようになる。

 上品な味を求めるラーメン、量を求めるラーメン、刺激を求めるラーメン、クセになるラーメン等、今は様々である。そこには店主のこだわりがあり、それがまたドラマになる。

 『行列の女神〜らーめん才遊記〜』は「日本人」のドラマだ。
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映画『凱里ブルース』を見ました。

2020-06-08 17:54:52 | 映画
 ビー・カン監督というのは今注目を集めている中国の新人監督だそうです。そのビー・カン監督のデビュー作がこの『凱里ブルース』です。不思議な世界が現実的な映像の中で描かれていきます。身近な別世界に連れていかれるような不思議な映画でした。

監督 ビー・ガン
出演者 チェン・ヨンゾン Yue GuoLinyan  LiuFeiyang Luo

あらすじ
凱里の小さな診療室に身を置いて、老齢の女医と幽霊のように暮らすシェン。刑期を終えてこの地に帰還したときには、彼の帰り を待っていたはずの妻はこの世になく、しばらくして可愛がっていた甥も弟の策略でどこかへ連れ去られてしまった。シェンは甥を連れ戻すため に旅に出る。そして辿り着いたのは、ダンマイという名の、過去の記憶と現実と夢が混在する不思議な街だった…

 この作品の大きな特徴は長時間のワンショットです。40分くらい移動しながらワンカットで描かれています。それによって観客は主人公と一緒にダンマイへ進んでいきます。途中いろいろな人と出会います。その出会いの一つ一つが、過去を思い起こさせ、時間が交錯していきます。

 考えてみれば人間の時間感覚ってこういうものですよね。未来を夢見ながら、過去がすぐそばに寄ってきます。現在と過去が交錯した時間の中で、未来を見ようとしているのです。つらい過去の時間が未来を暗くし立ち止まります。しかし、逆にだからこそ未来を明るくしようと足を踏み出していくのです。

 そんな不思議な時間の中で、何か力を得られるような気がする映画でした。

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やっぱり私たちは電通に騙されているのか

2020-06-07 08:54:01 | 社会
 日本は原子爆弾によって大きな死傷者を出した国である。日本は福島の原子力発電所で大きな事故を起こした国である。誰がどう考えても原子力発電所を推進することに対して反対する人間が多いはずである。しかしそうなっていない。逆に原子力発電所を推進しようとしている。なぜそれが可能なのか。本間龍氏が指摘しているように電力会社と電通におけるプロパガンダによって世論が形成されていると考えるのが一番納得できる。

 原発だけではない。オリンピックもそうだ。この状況ではオリンピックは中止したほうがいい。しかしオリンピックは電通にとって巨大な利権である。その巨大利権を守るために電通は中止することをうまく逃れ、なんとか一年延期にするように世論を誘導した。ところが一年延期も怪しくなってきた。そこで「新しいオリンピック」を提唱し始めた。おそらく無観客で開催し、テレビ放映権だけは確保し、それ以外は税金でなんとか賄おうとしているのだろう。無理を承知の綱渡り状態である。今回の新型コロナ関係の予算で電通がもうけようとしているのも、おそらくオリンピックの損失を何とかしようとしたのであろう。

 電通にとって安倍政権は一番都合がいい。電通の思い通りの政策をしてくれるからだ。オリンピック誘致だって安倍政権が陰で何をしていたのかわからない。電通と安倍政権は密着な関係であり、安倍政権を長続きさせるために世論誘導をしているのだろう。安倍政権に批判的な番組があれば、安倍政権を擁護するようなコメンテーターがなぜか出演するようになるのも、電通が圧力をかけていると考えれば説明がつく。

 電通が日本の世論を支配しているとしか思えない。

 電通と安倍政権の癒着と世論誘導をマスコミも踏み込めない。マスコミは電通と深いつながりがあるからである。電通に逆らえば自分たちの商売がなりたたないのだ。

 もはや「正義」ということばは消えてなくなってしまった。
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映画『シェイクスピアの庭』を見ました。

2020-06-06 06:32:10 | 映画
 シェイクスピアの晩年をケネスブラナーが描いた映画です。シェイクスピアほど成功した人物でも、晩年はさまざまな苦労を重ねます。人生、うまく行かない。そんな人生も「分相応」な人生だと受け入れるしかない。自分を受け入れることによって人間として穏やかに生きていくことができることを教えてくれます。感動しました。

監督 ケネス・ブラナー
出演 ケネス・ブラナー ジュディ・デンチアン他

 一生懸命に生きていても、自分の思う通りにはなりません。そんなときに人は自暴自棄になり、自分を見失ってしまいます。しかし自分の思う通りの人生というのは思い上がりでしかありません。とくに成功した人間ほど思い上がって勘違いしてしまいます。自分の努力に報いる「幸せ」があるはずだと思ってしまうのです。

 しかし、人間はだれもが努力をしています。自分だけ苦労しているわけではありません。みんなが自分の人生に応じた小さな「幸せ」とたくさんの「苦しみ」を得るのです。

 晩年のシェイクスピアに友人の劇作家ベン・ジョンソンが「分相応」という言葉を与えます。「分相応」という言葉は、自分の「分」という意味ではありません。人間の「分」です。人間はみんな平等です。それを受け入れることも人間だからこそできるのです。人間だからこそ欲があります。しかし人間だからこそ、欲を昇華して人間らしく生きることを選ぶことができるのです。

 あらゆる罪もあらゆる不幸も、それらは人間だからこそのものです。みんなが真剣に生きるために生まれたものなのです。それらを受け入れること。それが人間の「分相応」なのです。

 いい映画を見ました。
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