とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

『千と千尋の神隠し』の分析的読解②「名前」

2023-01-22 09:54:44 | 千と千尋の神隠し
 国語の授業で『千と千尋の神隠し』の分析的読解をやってみようと思い、準備しています。キーワードごとに分析していこうと考えています。まだ構想段階ですがメモ的に書いていきます。

 二つ目のキーワードは「名前」。

 『千と千尋の神隠し』では、千尋は湯婆婆から「千」という名前を与えられ、本名を隠してしまいます。


 日本人が本名を表にしないというのは昔は普通に行われていたことです。例えば『源氏物語』の作者である「紫式部」や、『枕草子』の作者である「清少納言」は本名ではありません。通称です。では本名は? 実はわかっていません。いくつかの説はあるようですが、確証はありません。つまり、本名は隠すのが普通だったのです。

 古代の日本では実名をで呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられていました。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためのようです。

 油屋の主人の湯婆婆は「千尋」を「千」という名に変えてしまいます。これは本当の名前を奪ってしまい、支配しようとしているということかもしれません。しかし見方を変えると本当の名前を守っていることになるのかもしれません。死後の世界で本当の名前を使えば、そのまま死後の世界の住民になってしまうのです。湯婆婆は千尋を守ったのかもしれません。どう考えるべきかは、私には今はまだわかりません。


 とは言え、この物語はここから本当の自分の名前を取り戻す冒険になります。千尋はもとの自分の名前を忘れかけます。そんの千尋にハクは、本当の名前を忘れると元の世界に戻れなくなると忠告します。千尋は自分の名前を必死に取り戻します。さらにはハクも自分の名前を取り戻し、本当の自分を取り戻すのです。


 本当の自分を取り戻すことによって、千尋は人間の世界へともどることができ物語は終わりを告げます。これは、資本主義文明に侵された現代社会が、本当の人間社会にもどることを意味しているように思えます。
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『千と千尋の神隠し』の分析的読解①「川」

2023-01-20 16:52:30 | 千と千尋の神隠し
 国語の授業で『千と千尋の神隠し』の分析的読解をやってみようと思い、準備しています。キーワードごとに分析していこうと考えています。まだ構想段階ですがメモ的に書いていきます。

 まず一つ目のキーワードは「川」。

 この映画で「川」がカギになっています。

 最初のほうの場面で、父親と母親が車をおりてかつてテーマパークだったところへ坂を上っていく場面があります。そこに小川があります。これはわざわざ人口の川をテーマパークのために自然に似せて作ったのです。その川の存在は人間の偽善を表現しているようにも思われます。


 夜になり、船に乗った神々が渡ってきます。よく見ると、向こう岸は千尋たちが通りぬけてきた時計台のある建物です。とすると船に乗った神々が渡ってきたのは、あの人工の小川が水量が増えて広がったものであることがわかります。


 三途川とは、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川です。川は生と死の境目というイメージがあります。その川が埋め立てられたり、氾濫すれば生と死の境は失われてしまいます。人類に大きな不幸をもたらすことになるかもしれません。『千と千尋の神隠し』にはその警告が隠されているのかもしれません。


 千尋は小さいころ川で溺れてしまいます。ハクの本当の名前は「ニギハヤミコハクヌシ」であることが思い出され、ハクは千尋の溺れた「コハク川」の神であることがわかります。


 しかし、そのコハク川も埋め立てられて今はマンションが建っているということです。これは製作者が自然が失われていくことを憂えているように感じられます。

 
 
 その根拠となるのは川の神の登場です。川の神はオクサレ様というヘドロのような存在として登場します。ものすごく臭い。オサクレ様を千尋が相手するのですが、千尋はオクサレ様に何かがささっていることに気が付きます。それを引っこ抜くとそこから大量のごみが出てくるのです。これは人間の出したゴミです。人間の出したごみが昔ながらのきれいな自然を汚し、人間が自然を破壊している、そのことを訴えているのだと思われます。これがこの映画の大きなテーマとなっていることは明らかです。

 オクサレ様が千尋にくれたニガダンゴがストーリー展開に大きな影響を与えてくれます。自然の偉大さを感じさせてくれます。

 雨が降り、川が氾濫し海になるという表現も、地球温暖化に対する警告ととることができます。


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映画『ミセス・ハリス パリへ行く』を見ました。

2023-01-19 08:12:10 | 映画
 映画『ミセス・ハリス パリへ行く』を見ました。真面目で質素な生活をしていた戦争未亡人が、パリの高級ブランド「クリスチャン・ディオール」のドレスにあこがれ、古い慣習にしばられていたディオールを変革させ、自身も大きく変わっていく物語です。気持ちが明るく前向きになる映画です。

 自分を変えたいと思うことはよくあります。しかし日常に埋没してしまって昨日までの自分のままで今日を生きてしまうのが普通です。毎日毎日今日の自分に嫌気がさしながらも、それを変えていくことはできることではありません。

 自分を変えることを可能にしてくれるのは、自分の好きなことに陶酔することです。自分の人生にそれにかけることができるくらいに好きなものを見つけることです。しかしそれがむずかしい。自分が本当に好きなものって何なのだろう。そこで迷っていまいます。

 主人公のミセス・ハリスは服が大好きでした。服を見ているときの彼女の目はあきらかに違っています。これは役者さんの勝利です。実は女性がドレスに夢中になるということは私にはあまりピンとこないことなのですが、しかしこの女優さんの演技をみるとすんなりと受け入れられます。

 夢物語のような軽いお話ではあるのですが、役者さんたちの丁寧な演技がきちんと支えてくれ、心に落ちる作品に仕上がっています。気持ちのいい映画でした。
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『吾輩は猫である』の読書メモ③「第三章」

2023-01-15 14:48:37 | 夏目漱石
 『吾輩は猫である』を読んで、メモしていく。今回はその3回目。第三章。

【ようやく「苦沙弥」という名前が現れる】
 「主人」は原稿を書いているが進まない。「妻君」は「今月は足りませんが・・・」と不満を訴える。そこに「迷亭」があらわれる。「迷亭」と「妻君」との会話から主人の名前が「苦沙弥」であることがわかる。苦沙弥も小説の中ではまだ名前もない状態だったのだ。ここまで続くとは思ってなかったのに、まだしばらくこの小説を続けなければならないとなったがために、構想を練り直して設定も明確にしていこうとしている様子が伺われる。

【「寒月」と金田家の娘の結婚話が始まる】
 「寒月」が現れる。その日の晩の演舌の稽古を始める。罪人の絞罪の刑についての考察である。絞首刑のことである。話が盛り上がらず途中で帰る。

 数日後、「迷亭」がまたやってくる。そこに女客がやってくる。金田家の細君である。鼻に特徴があり、「吾輩」から「鼻子」と名付けられる。「鼻子」は娘の結婚相手として「寒月」のことをいろいろと聞いてくる。「苦沙弥」は「鼻子」に失礼なことを次々に言う。

 「吾輩」は金田家をさぐりに行く。探偵小説のようである。しかし、自分がいくら探ったってそれを「苦沙弥」たちに伝える手段はない。それでも義侠心から行くのだと言い訳をする。この言い訳がこの小説らしいところである。

 金田家では「苦沙弥」の悪口のオンパレードである。その娘は別室で電話をしている。「吾輩」も電話は初めてらしい。この時代に電話が始まったということであろう。この娘の名前が「富子」であることがわかる。「吾輩」は「苦沙弥」の家にもどる。

 そこにはまだ「迷亭」がいる。「寒月」も来ている。「迷亭」は鼻についての学術的な考察を行う。とは言ってもいつものごとく出鱈目なものだ。そして鼻は遺伝するので金田富子と結婚してはいけないと「寒月」に言う。この話を近所の人たちが垣根のそばで聞いていたのか、「苦沙弥」に対して馬鹿にしたような声を上げる。「苦沙弥」は怒って往来にでるがすでに誰もいない。

 「寒月」と金田家の関係はこの小説の主たる筋になる。とは言えまともな展開にはならない。筋としては何の面白みもない。

 続けるつもりもなかった小説が人気になったために無理矢理続けるためにいろいろな苦労が伺える。そんないい加減さ見える章である。しかしその軽さが時代を表しているようにも感じる。
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学力格差への対応をきちんと考える必要がある

2023-01-13 15:44:09 | 教育
朝日新聞EduAの記事がネットで紹介されていた。タイトルは「英語好きの小学生が減少、中学生は成績が二極化の傾向 その原因は?」。内容は「学校の英語学習の充実が図られ、語学力が高い子が増える一方で、早くから「英語嫌い」になる子も増えてきています。」というものです。

これは予想された事態です。小学校で英語が必修化されれば中学校受験で英語力を測ることになります。お金のある家庭は幼児期から英語を勉強させ、英語力が大きく伸びます。それに対して、それほど裕福ではない家庭では英会話スクールに通わせることができず、英語の力がそれほど伸びません。つまり学校で英語に触れる段階ですでに差がついてしまっているのです。これでは英語嫌いが増えるのは当たり前です。英語力は二極化します。

英語力だけの問題ではありません。実は学力格差はすでに始まっているのです。経済力のある家庭の子供は学力が高く、経済力のない家庭の家は学力が比較的高くありません。経済力のある家庭の親は「教育力が高」く、子供の教育に熱心です。塾にも通わせるし、塾以外の習い事にも熱心です。経済力のない家庭では教育にお金をかけることができませんし、そもそも学歴にあまり魅力を感じていません。だから学力が低くなる傾向が高いのです。もちろん決めつけるわけにはいきません。それがすべてではありません。しかしその傾向が大きくなっているのは確かです。

こうなってしまうと学校の中で勉強する意欲の高い生徒児童と、意欲の低い生徒児童が生まれます。意欲の低い生徒児童にとっては授業は苦痛でしかありません。教室は監獄のように感じられ、不満を態度に表します。そうするとやる気のある児童生徒も不満を感じるようになります。クラスは荒れ始め、教員は疲弊していきます。

そういう荒れたクラスを経験した人たちは教員になんかなろうとしません。教員不足は構造的な問題なのです。

以上のような状況を踏まえ、どういう教育を目指すのか、きちんと考えていかなければならないはずです。しかし文部科学省はそんなことを考えているようには見えないのが現状なのです。

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