とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

源氏物語を読む㉑「乙女」

2023-01-09 17:00:47 | 源氏物語
 「源氏物語を読む」シリーズの21回目、「乙女」です。自分の備忘録として書き残しておきます。

 源氏と葵の上の息子夕霧が、元服を迎えました。しかし源氏は夕霧を敢えて優遇しません。六位にとどめて大学に入れます。厳しい教育パパになっています。

 同じ年、源氏の養女斎宮女御が冷泉帝の中宮になります。源氏は太政大臣に、右大将(頭中将)は内大臣になります。

 内大臣は、娘の雲居の雁を東宮妃にと期待をかけるのですが、彼女は共に育った幼馴染の従兄弟・夕霧と密かに恋仲になっていました。(このあたりのことは言葉を濁しながら書いているという感じで、読んでいてもよくわかりません。)これに内大臣は激怒します。夕霧と雲居の雁のふたりはもとのようには一緒に過ごすことはできなくなります。

 ここから夕霧の優柔不断の性格が出てきます。いろんな人を次から次へと好きになるのですが、うまくことが運びません。父親のスーパーマンぶりに対して、息子は現実の壁にぶつかり苦労しています。なんでこんなに差をつけるのでしょうか。物語の展開が読めなくなってきます。

 この光源氏から夕霧への変化は、「物語」から「小説」への流れがあるのかもしれません。

 その後、夕霧は進士の試験に合格、五位の侍従となります。

 源氏は六条に四町を占める広大な邸(六条院)を完成させます。東南の邸を春の町にして紫の上が住み、西南の邸を秋の町としてを中宮の里邸とします。北西の冬の町に明石の御方、北東の夏の町に花散里が住みます。わがままな源氏が自分の都合のいいようなお屋敷を作り上げてしまいました。こんなことが許されていいのだろうかなどと現代の私なんかは思ってしまいます。
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歌舞伎『人間万事金世中』を見ました。

2023-01-09 09:58:31 | 演劇
 2023年、歌舞伎座の新春歌舞伎第二部を観劇しました。見たかったのは黙阿弥がイギリスの劇作家リットンの「マネー」という戯曲を翻案した『人間万事金世中』。明治期に伝統的な江戸文化を土台としながら、どのように西洋文化を取り入れていったか、つまり日本の近代文化がどういう風に生成していったのかを考えるのに重要な作品ではないかと思い見に行きました。

【あらすじ】
恵府林之助は叔父の辺見勢左衛門のもとで居候として身を置いていた。勢左衛門は金に汚い男で、甥に当たる林之助も店の丁稚同様に扱っている。その林之助に莫大な遺産が入る。その遺産をもとに商売をはじめようとする。

そこに勢左衛門が訪れ、自分の娘を嫁にもらえと言う。もちろん林之助の財産目当てであった。そんなところに、寿無田宇津蔵という男が弁護士の口の上糊を連れて訪れる。宇津蔵は林之助の父親に大金を貸していて、利子も含めて返せと言う。林之助はその話に従い、すべての財産をなくしてしまう。勢左衛門はあきれて帰り、縁談も消えてなくなる。

しかし実はそれは林之助の演技であった。林之助は勢左衛門とのくされ縁を断ち切るために演技したのだった。

 正直言って特別おもしろい作品ではありません。黙阿弥らしい奇抜さも残忍さもない。とりたててどうという話ではないのです。おそらく林之助が受け取った遺産を全部人にわたす芝居をする場面がこの芝居の肝となるところなのでしょうが、それもうまく処理できていません。どう上演すればいいのかわかりにくい脚本です。

 「近代」という時代がリアリティを求め、そのために無理な設定を採りにくかったという事情があったのだと思われます。しかも翻案であり、ストーリーの制約もある。西洋の演劇をまずは日本でやってみたいという意図もあったのかもしれません。しかしなにか中途半端に終わってしまっています。

 そこに明治初期の日本の演劇人の苦悩を見えてきます。その意味で貴重な作品です。
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ntlive『レオポルトシュタット』を見ました。

2023-01-08 11:27:21 | 映画
 英国で上演された演劇をそのまま映像にして公開するntlive。トムストッパードの新作『レオポルトシュタット』が日本で上映されています。初日に見に行きました。ものすごい映画(演劇)でした。

 ユダヤ人のおかれた状況、その状況の中でさまざまな困難を克服しながら生きていく人間の姿が描かれます。第二次世界大戦時のユダヤ人の苦しみは想像を絶するものがあります。

 とは言えだれもが表と裏があり、自分勝手な部分があります。打算もあります。それが人間の真実であり、責める必要はありません。客観的に見ればダメな部分も含めて人間なのです。そしてその虚と実が歴史になっていきます。歴史の悲しさといとおしさが最後の場面にぐっとせまってきます。

 この作品、登場人物も多く、しかも年代が長期にわたります。誰が誰かがわかりにくくなります。私は日本の上演の前に戯曲を読んだのである程度理解はできましたが、初めての人が理解できたのでしょうか。ちょっとした解説ペーパーがあればいいのではないかと思われました。

 この作品、すでに日本の新国立劇場で上演されています。それも見ました。演出が小川絵梨子さんです。すばらしい作品で感動したのですが、さすがにロンドンで上演されたntlive版ははるかに上を行くものでした。日本で一生懸命上演してくださった方々には申し上げにくいが、やはり役者の質が違います。ミスキャストではないかと思われる方もいました。日本人にはユダヤ人の歴史が自分のものとしてとらえるのが難しかったのかもしれません。

 日本も戦時中多くの人を苦しめていました。苦しめられた人たちの心をよく考える必要があります。戦後しばらくは日本人が苦しめられた経験もあります。今回の映画を見て、さらに意識が高くなり、よりよい日本版の上演ができることを期待します。

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『吾輩は猫である』の読書メモ②「第二章」

2023-01-07 07:26:04 | 夏目漱石
【近代知識人の苦しみ】
「吾輩」は「主人」の日記を紹介する。

「主人の様に裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自分の面目を暗室内に発揮する必要があるかもしれないが、(略)」

 いわゆる「近代知識人」は、世間一般の人たちと次元の違うことを考えていた。これは「近代知識人」の見栄だったかもしれないし、「西洋文化」を吸収した人の必然だったのかもしれない。いずれにしても世間との乖離に苦しみながら生きていくことになる。

【単なる語り手ではない「吾輩」】
 猫は単に人間社会を語る語り手ではない。自分自身も活動し、それも語っている。

 「吾輩」は雑煮のもちを食べる。噛み切れず、のどにつかえる。持ちを前足二本で取ろうとする。二本足で立ち、踊りを踊っているようになり、人間たちに笑われる。

 三毛子に会いに行く。三毛子の飼い主は琴のお師匠さんである。元気が回復するし、車屋の黒とも話をする。

【「吾輩」の批評眼】
 「吾輩」は家にもどると越智東風が来ている。このあたりは単に人間の世間話を聞いているだけだ。

 東風は詩人である。迷亭のトチメンボー事件を主人に語って聞かせる。西洋料理店に行って、「トチメンボー」といった名の実在しない料理を注文したというたわいもないいたずらである。東風は主人に朗読会について語る。近松の芝居の朗読会だという。「主人」にそのメンバーになるように依頼する。東風はカステラを盗み食いする。

 迷亭がやってくる。そこに寒月もやってくる。迷亭は「首懸の松」の話をする。首つり自殺をしてみたくなるような松があり、首をつってみようと思い立つ。しかしすでに約束していた東風が家に来て待っていると気の毒だと思い、一旦家に帰ってから出直す。再びやってきたら、すでに別な者が首をつっていた、という話だ。冗談話なのか怪談話なのかよくわからない怪談話である。

 寒月も話を始める。ある忘年会で、寒月の知り合いの若くてきれいな女性が病気になったと聞く。その帰り道、吾妻橋の川上から女性が自分を呼ぶ声が聞こえる。その声に導かれるように橋から飛び降り気を失う。気が付てみると濡れていない。実は川に飛び込んだのではなく、橋のほうに倒れただけだったのだ。これも怪談話にしては中途半端である。

 次に主人が自分の病気のエピソードを語る。これも中途半端にしか思えない話である。

 すると「吾輩」は次のように言う。

 「吾輩は大人しく三人の話しを順番に聞いていたが可笑しくも悲しくもなかった。人間というものは時間を潰す為めに強いて口を連動させて、可笑しくもない事を笑ったり、面白くない事を嬉しがったりする外に能もない者だと思った。」

 この批評は厳しい。猫から見ればどんなことを人間がしゃべっても意味がないことなのだろう。しかし、実際にもどうでもいいことをしゃべって時間をつぶしているの人間なのかもしれない。さらに「吾輩」は主人の話の意味のなさを攻撃し、主人を軽蔑したくなる。

 「彼れはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すれば何の所得があるだろう。」

【三毛子の死】
 三毛子のことが気になり、出かけてみるとすでに三毛子は死んでいた。三毛子の飼い主は「吾輩」のせいで三毛子が死んだと話している。
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タモリさんの一撃

2023-01-03 18:25:12 | 社会
 タモリさんが昨年末の『徹子の部屋』に出演し、司会の黒柳徹子さんから「来年はどんな年になりますかね?」と尋ねられると、次のように答えた。

 「誰も予測できないですよね。これはね。でもなんて言うかな。新しい戦前になるんじゃないですかね」

 すごい言葉だ。

 今生きているほとんどの日本人は戦争をしらない。だから戦前の状況なんかわからない。しかし最近の日本の状況を見ると戦争に向かっているのではないかと感じることが多くなってきた。

 軍事費の大幅な増額も表立った反対は聞かれない。軍事費の増額に対して賛成する気持ちは理解できるが、それがこれまでの2倍になるということは行き過ぎなのではないだろうか。それを議論するような雰囲気もなく、総理の言われたままに進むように感じられる。

 原子力発電所も大きく政策転換した。それも議論がない。

 国家予算もこんなに膨れ上がることについても、もう決定しましたというような態度である。

 おそらく通常国会での議論になるのであろうが、変わる気もしないし、国会の議論によって考えが深まる気がしない。

 権力者がどんどん自分勝手に押しすすめ、権力のない人たちはどんなことをされても黙ってろという社会になってしまった。

 この流れを止める必要がある。

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