とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

『この素晴らしき世界』

2023-09-18 15:32:31 | TV
 夏ドラマがおおむね終わった。今期のドラマはかなり楽しめた。いくつかの番組の感想を述べる。最初はフジテレビ系の『この素晴らしき世界』。

 鈴木京香が体調を崩し降板し、若村麻由美が代役になったことで話題になったドラマである。平凡な主婦が、大女優になりすまして社会的な大きな事件に巻き込まれるというドラマ。内容がシビアなわりにはコメディ的な要素も多く、肩の凝らないドラマである。

 このドラマがタイムリーだったのは、ジャニーズ事務所の問題を思わせたからである。業界側の権力、そして忖度がはびこる芸能界やテレビ局の姿が描かれる。さらにある意味衝撃的だったのは芸能事務所の社長を木村佳乃が演じていることである。もはやジャニーズ事務所問題を予測してこの時期作られたのではないかと思わせるほどのシンクロであった。偶然とは思われない。これはすごすぎる。

 若村麻由美はさすがである。代役とは言え、自分のドラマにした。木村佳乃も見事だった。役者はみんなよかった。本当に役者ってすごいんだと改めて感心させられた。日常と非日常が入り混じる脚本もいい。

 芸能界もマスメディアも改革が必要である。それを訴えるいいドラマだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スウィフト作『ガリバー旅行記』を読みました。

2023-09-15 04:07:46 | 読書
スウィフト作『ガリバー旅行記』を読みました。大雑把に内容は知っていたのですが、実際に読んだのは初めてです。物語的なおもしろさよりも人間批判の色合いの強い作品であり、おもしろい発見がたくさんありました。

第一話は「リリパット」。小人の国です。第二話は「ブロブディンナグ」。巨人の国です。この2話は物語的な要素も強く、楽しく読むことができます。二つ国は相対化されることによって、人間自身も相対化されます。

第三話はラピュタなどの国々です。ラピュタは宮崎駿のアニメ映画にもなっている空中に浮かぶ島です。その外にもいろいろな国を訪れ、最後は日本にも立ち寄ります。日本に行った目的は、長崎からオランダ船に乗ってヨーロッパに戻ろうとしたからです。「踏み絵」だけはしたくないというガリバーの要求がおもしろい。とは言え日本の記述はごく短いものです。

第三話で特におもしろかったのは「ストラルドブルグ」という不死の人間です。不死とは理想のように思えるのですが、実は苦しいことが描かれます。この部分は考えさせられます。

第四話は「フウイヌム」。馬の支配している国です。フウイヌムは人間に比べて理性的で争いをしません。ガリバーにとって理想的な国です。一方その国には「ヤフー」と呼ばれる動物が住んでいます。ガリバーは「ヤフー」は人間の劣化した存在のように考えます。しかし、実は人間そのものであることに気づきます。フウイヌムと比較すると人間は実に愚かで醜い存在であることに気づいてしまうのです。自分たち「ヤフー」=「人間」はこんなに醜い生き物だったのか。ガリバーは人間不信に陥り、その心はもとにもどれません。

ガリバーは結局イギリスの自分の家に戻ります。しかし以前のようには生きることができません。「ヤフー」=「人間」に対する嫌悪感はもはや消えることがないのです。妻と再会したあとの次の記述は衝撃的です。

「自分がかつてヤフーの一匹と交わり、数匹の子を産ませたという事実を目の前につきつけられて、わたしはどれほどの屈辱、困惑、嫌悪にうち震えたことだろう。」

もはや人間を人間としてはとらえられなくなり、家族でさえ醜い「ヤフー」という獣にしか見えなくなっているのです。ガリバーは不幸な老後を生きることになります。第四話の人間批判はすごい。


『ガリバー旅行記』と云うと子供向けの物語というふうに勝手に思っていましたが、実は人間批判、文明批判の書であったのです。

世界的に有名な本でもまだ読んでいない本はたくさんあります。読みつくすことはできないでしょうが、少しでも多く読んでみたいと改めて思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『クロース』を見ました。 

2023-09-13 18:33:05 | 映画
カンヌ映画祭でグランプリを受賞した映画『クロース』を見ました。説明的なセリフがほとんどなく、的確な描写で心を伝える、心にしみる映画でした。

主人公はレオという少年です。レオは同じ年の少年レミと大の仲良しです。傍から見るといちゃついているように見えます。そのためからかわれます。あるいは恋愛感情があったのかもしれませんが、レオはそれが恋愛だとは思っていません。そのために強く否定します。

ある日、レオがレミと寝ている時、レミはレオのふとんに潜り込みます。朝、そのことに気づいたレオは激しく怒り、レミを殴ります。以前は二人で同じベッドで寝ていたのにです。これにレミはショックを受けます。レミは恋愛感情があったのです。

少年たちの心の動きが丁寧に描かれて、場面が心を伝えます。せつない少年時代の心が蘇っています。

レオはレミを避けるようになり、レミは自殺してしまいます。

レオは自分のせいだと思い苦しみます。レミの母親もレオに何らかの疑念をいだき、真相を知ろうと思いますが、もちろんそれを態度にだしません。真実を知る事を望みます。

母親の気持ちも、レオの気持ちも痛いほど伝わってきます。自分を責めるレオ、レオを責めてはいけないとはわかりながら、レオに冷たい言葉を投げつけた母親の心、心の痛みが映像から直接感じられます。

見事な描写で細かな心を直接伝える映画です。名作です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏目漱石『坑夫』の読書メモ②

2023-09-12 16:44:07 | 夏目漱石
 夏目漱石の『坑夫』の読書メモの2回目。

〔『虞美人草』との関わり〕
漱石の直前の新聞小説が『虞美人草』だった。『虞美人草』の次に二葉亭四迷の『平凡』があり、その次に『坑夫』である。どういう点で関連性が見られるのか。

『虞美人草』に小野という青年が出てくる。この小野は京都大学を優秀な成績で卒業して、今は博士論文を書こうとしている。学生時代の恩師の娘・千夜子を妻に取る口約束を交わしている。恩師と千夜子は困窮しており、彼らを援助する意味でも結婚するのが義理なのだ。ところが小野には他に惹かれる藤尾という女性がいる。その板挟みの中で小野は苦しむ。

『坑夫』の主人公の青年も小野と同じような立場であった。

青年はい家出した。その理由は許嫁がいながら、他の女を好きになってしまったからである。

この二人を説明している箇所を引用する。

澄江さんはぐうぐう寝ている―どうしても寝ている。自分のいる前では、丸くなったり、四角になったり色々な芸をして、人を釣ってるが、居なくなれば、すぐに忘れて、平生の通り御膳をたべて、よく寝る女だから、是非に及ばない。あんな女は、今まで見た新聞小説には決して出て来ないから、始めは不思議に思ったが、ちゃんと証拠があるんだから慥かである。こう云う女に恋着しなければならないのは、余ッ程の因果だ。随分憎らしいと思うが、憎らしいと思いながらも矢ッ張惚れ込んでいるらしい。不都合な事だ。今でも、あの色の白い顔が眼前にちらちらする。怪しからない顔だ。艶子さんは起きてる。そうして泣いてるだろう。甚だ気の毒だ。然し此方で惚れた覚もなければ、又惚れられるような悪戯をした事がないんだから、いくら起きていても、泣いてくれても仕方がない。気の毒がる事は、いくらでも気の毒がるが仕方がない。構わない事にする。

「澄江」さんが「藤尾」であり、「艶子」さんが「小夜子」という構造が一致している。『坑夫』の青年は、小野のその後を描いているとも言えるのである。

このことを念頭に置いて考えてみると、二つの小説の対照性が見えてくる。

『虞美人草』は三人称小説であり、語り手の視点は様々な登場人物を平等に描く。誰が主人公だと言われても誰とも答えられない。ある解説では小野が主人公だと書いてあったが、私にはそうは見えない。それに対して『坑夫』は「自分」と名乗る青年の一人称小説である。すべてが青年の視点から描かれる。もちろん描かれる心理は青年のものだけである。同じ三角関係を素材としていながら、『虞美人草』は演劇的に描き、『坑夫』は心理小説のように描いているのだ。方法論的な模索があったのはまぎれもない。

さらに感じるのは『虞美人草』は表面的であり、『坑夫』は人間の心を探索している。深い探究である。そのため『虞美人草』における藤尾の悲劇は構造的な結論として描かれる。それに対して『坑夫』の青年は自己を深く探究し、自力で生きる道を構築するのだ。ドストエフスキーのような印象も受ける。

つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏目漱石作『坑夫』の読書メモ①

2023-09-10 13:28:37 | 夏目漱石
『坑夫』は、夏目漱石の長編小説で、明治41年の元日から東京の『朝日新聞』に91回にわたって掲載された。『虞美人草』についで、漱石が職業作家として書いた2作目の作品。 

〔あらすじ〕
恋愛関係のもつれから着の身着のままで家を飛び出した青年が行く当てもなくさまようっていると、ポン引きの長蔵と出会う。自暴自棄になっていた青年は誘われるまま鉱山で坑夫として働くことを承諾する。鉱山町の飯場に到着する。鉱山の飯場は異様な世界だった。そこでの生活に不安を覚えながら、翌日、「初さん」に案内をされ、坑内へ降りていく。「シキ」(=坑内)は命がけである。青年は「死」を決意する。しかしここで死ぬことは虚栄心が許さない。鉱山から出て死にたい。そう考える。「シキ」の中で道に迷っていると坑夫の「安さん」と出会う。「安さん」は東京に帰った方がいいと忠告する。その言葉に心を動かされたものの、逆に坑夫として働くことを決意する。翌日診療所で健康診断を受けた青年は気管支炎と診断され、坑夫として働けないことが判明する。結局、青年は飯場頭と相談して飯場の帳簿付の仕事を5か月間やり遂げた後、東京へ帰ることになる。

〔この小説ができた理由〕
漱石のもとに荒井伴男という若者が現れて「自分の身の上にこういう材料があるが小説に書いて下さらんか。その報酬を頂いて実は信州へ行きたいのです」という話を持ちかける。漱石は当初、その話を断るが、時を同じくして、明治41年の元日から『朝日新聞』に掲載予定だった島崎藤村の『春』の執筆がはかどらず、急遽漱石がその穴を埋めることとなる。そこで漱石は若者の申し出を受け入れ、漱石作品としては若者の話を小説化した作品を書き上げる。それが『坑夫』である。

続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする