<続き>
4.発掘した窯の年代
4つの窯址を発掘したが、それぞれの窯の構築年代は異なると考えられる。それは1つの窯が、他の窯より古いことによる。発掘抗K-1、K-2の発掘結果より、ITK2が他の3つの窯より古く、ITK3築窯のため部分的に破壊して、スペースが確保されていた。
ITK1、ITK3とITK5は同時期に築窯され、同時に操業していたと思われる。


5.インターキン窯の操業年代
前述のように、中世ランナー世界の窯には、絶対的な年代が付与できていなかった。この地域の陶磁器や製品の年代は、相対的な方法に依存して他の考古学、建築、芸術的スタイルと比較しての年代観であった。
考古学的に年代が明らかであるのは、13世紀初-17世紀半ばのサンカンペーン窯と15-16世紀のパーン・ポンデーン窯である。インターキンの窯の形状は半地下式のサンカンペーンと地上式でブロック構築のパーン窯との中間である。
インターキン窯の陶磁、例えば盤形状や鉢については、サンカンペーンとパーン双方に似ている。しかし胎土や釉調は比較的パーンのそれに似ている。
種々比較検討すると、インターキン窯の操業は、ランナー時代の14-16世紀でパーン窯のそれと同じである。
(サーヤン氏の後日の報告では、C-14年代測定の結果、ITK1で1445-1475年、ITK5で1410-1435年を示した)
6.ムアン・ケーンの歴史とインターキン窯
前述のように、インターキン窯はムアン・ケーンと呼ばれる地域の丘の斜面に横たわっている。そこは13世紀以降今日まで、チェンマイをサポートする広大な田園地帯である。
発見されたインターキン窯址は、稲作の田園だけではなく、日常使用する陶器の交易のためのひとつのセンターであった。そこは品質に優れた陶土、燃料、水の供給が可能な地域であった。そのムアン・ケーン地域はランナーの歴史上、チェンマイにおける重要な場所であった。
未発掘の寺院跡も多々存在し、将来的にそれらが明らかになれば、ランナーとチェンマイの歴史に関連し、事実を紹介できるであろう。
7.最後に
我々は、インターキン窯の土地所有者Duang-DeeChiayhanong氏に感謝する。彼は発掘チームに対し、日々対応して頂いた。Sumit Pitipat教授、タマサート大学の面々、サンパトン村の人々等発掘期間に、お世話になった方々に感謝する。
タイ芸術局Somkid Chotigavanit氏には予備調査の支援を頂いた。これらの方々の協力がなければ、インターキン窯発掘調査の成功はなかったであろう。彼らに重ねて謝意を表明する。
(了)
以上が調査報告の全文である。完器は出土しなかったとされている。従って盤の全容は分からないが、復元予想図は作成され、それは前回紹介した。見ると盤形状はサンカンペーンに似ているが、高台がサンカンペーンに比較し、しっかりしているように見える。
しかしながら、印花魚文や鉄絵文様は、存在しなかったようだ。その意味では、オムコイから出土する盤に、サンカンペーンとインターキンの混同は起こらないものと考えられる。
無文盤については、調査報告が指摘しているように、パーンとの混同が有り得ると考えられる。
一方、褐釉の壺はサンカンペーンの特徴に似ている点が多々あることに留意しておく必要がある。
4.発掘した窯の年代
4つの窯址を発掘したが、それぞれの窯の構築年代は異なると考えられる。それは1つの窯が、他の窯より古いことによる。発掘抗K-1、K-2の発掘結果より、ITK2が他の3つの窯より古く、ITK3築窯のため部分的に破壊して、スペースが確保されていた。
ITK1、ITK3とITK5は同時期に築窯され、同時に操業していたと思われる。



5.インターキン窯の操業年代
前述のように、中世ランナー世界の窯には、絶対的な年代が付与できていなかった。この地域の陶磁器や製品の年代は、相対的な方法に依存して他の考古学、建築、芸術的スタイルと比較しての年代観であった。
考古学的に年代が明らかであるのは、13世紀初-17世紀半ばのサンカンペーン窯と15-16世紀のパーン・ポンデーン窯である。インターキンの窯の形状は半地下式のサンカンペーンと地上式でブロック構築のパーン窯との中間である。
インターキン窯の陶磁、例えば盤形状や鉢については、サンカンペーンとパーン双方に似ている。しかし胎土や釉調は比較的パーンのそれに似ている。
種々比較検討すると、インターキン窯の操業は、ランナー時代の14-16世紀でパーン窯のそれと同じである。
(サーヤン氏の後日の報告では、C-14年代測定の結果、ITK1で1445-1475年、ITK5で1410-1435年を示した)
6.ムアン・ケーンの歴史とインターキン窯
前述のように、インターキン窯はムアン・ケーンと呼ばれる地域の丘の斜面に横たわっている。そこは13世紀以降今日まで、チェンマイをサポートする広大な田園地帯である。

未発掘の寺院跡も多々存在し、将来的にそれらが明らかになれば、ランナーとチェンマイの歴史に関連し、事実を紹介できるであろう。
7.最後に
我々は、インターキン窯の土地所有者Duang-DeeChiayhanong氏に感謝する。彼は発掘チームに対し、日々対応して頂いた。Sumit Pitipat教授、タマサート大学の面々、サンパトン村の人々等発掘期間に、お世話になった方々に感謝する。
タイ芸術局Somkid Chotigavanit氏には予備調査の支援を頂いた。これらの方々の協力がなければ、インターキン窯発掘調査の成功はなかったであろう。彼らに重ねて謝意を表明する。
(了)
以上が調査報告の全文である。完器は出土しなかったとされている。従って盤の全容は分からないが、復元予想図は作成され、それは前回紹介した。見ると盤形状はサンカンペーンに似ているが、高台がサンカンペーンに比較し、しっかりしているように見える。
しかしながら、印花魚文や鉄絵文様は、存在しなかったようだ。その意味では、オムコイから出土する盤に、サンカンペーンとインターキンの混同は起こらないものと考えられる。
無文盤については、調査報告が指摘しているように、パーンとの混同が有り得ると考えられる。
一方、褐釉の壺はサンカンペーンの特徴に似ている点が多々あることに留意しておく必要がある。
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