ハノイ国立博物館は日本のガイドブックには掲載されていないと思われる。行き方は下に記載しておいた。
所在地:ハノイ市トゥーリエム県ハムフン通り(Pham Hung street. H. Tu Liem, Hanoi)
上の写真はハノイ国立博物館の外観である。何とも斬新なデザインであるが、どこかで見たようなデザインである。そうだ、2010年上海万博の中国館とよく似ている。しかも双方共に2010年の開館である。どちらがパクッタのか。中国館は安藤忠雄氏設計のセビリヤ万博日本館のパクリと云われていたが、ベトナムもパクッタのか?。
所在はハノイ市街の南部で新興地区にあり、周囲は300mを超える高層ビルが建ち、これからどれだけ発展するであろうか? 行くにはBig-Cの南側の交差点をタンロン橋方向に右折して、徒歩10分の処にハノイ博物館はある。
ホアンキエム湖及び旧市街から直接のバスはない。キムマのバスターミナルから#33バスで、博物館前のバス停にて下車。
多分に明器と思われる写真の家形土器を見てびっくりした。キャップションを見ると1-3世紀とある。
下写真の後漢時代土器の囲まれた庭には豚、階段を昇った塀の上には鶏が造形されている。ベトナムのそれと比較し、全く同じではないがイメージは似ている。このベトナムの先進性をどのように考えればよいであろうか。
屋根付の門構えに土塀が取り囲み、奥の母屋と思われる建物は二層である。1-3世紀と幅を持たせた年代観であるが、日本では卑弥呼の時代である。つまり日本では良くて、弥生式の高床住居であるが、それと比較すると遥かに進んでいる。これを見て、先年愛知県陶磁資料館で見た、灰釉や緑釉の建物陶器を思い出した。その灰釉猪圏と呼ぶ後漢(1-2世紀)の建物型陶器を下に掲げてみる。
この時代、つまり後漢から三国時代のベトナムの歴史をみてみたい。紀元後の40-43年にかけて、後漢の太守に対してベトナム人による抵抗が表面化した。今のハノイの北西方向にあたる土豪の姉妹であった徴姉妹(ハイバチュン)は姉の夫・詩策(テーサック)が、交趾の太守に処刑されたことに挙兵し、妹と共に反乱を起こした。反乱軍は交趾郡太守を追放し、姉を徴王として新政権(40-42年)を樹立したが、洪武帝は41年名将・馬援に交趾討伐を命じ、苦労の末に徴姉妹軍を破り、姉妹は43年2月に馬援軍に捕えられ惨殺された。
その後の2-3世紀かけて、中国人支配層や屯田による中国からの移民が増加の一途を辿り、ベトナム人とせめぎ合う時代が長く続いた。この頃、交趾郡は後漢の建安八年(203)交州と改称された。その交州から284年に南にかけて広がった趙嫗(チャイアウ)の反乱は独立運動の先駆けであった。
写真の家形土器が作られた時期の、ベトナム北部の歴史の概要は上述の通りである。ベトナムに於ける中華の影響は、日本の比どころではなく、唯一中華とも思われる影響を受けたことが想定される。この文化的影響は後世の陶磁器にも覗うことができる。
2010年の建都1000年祭の時に開館した。展示物は見るものがないとの酷評もあるが、個人的には立派なものと評価している。それは、ハノイ歴史博物館の収蔵品より質、量ともに優れており、特にドンソン文化を代表する銅鼓、青銅器と2-3世紀以降の陶磁器は圧巻である。そして開館以来今日(2013年6月15日現在)まで無料である。
<続く>
所在地:ハノイ市トゥーリエム県ハムフン通り(Pham Hung street. H. Tu Liem, Hanoi)
上の写真はハノイ国立博物館の外観である。何とも斬新なデザインであるが、どこかで見たようなデザインである。そうだ、2010年上海万博の中国館とよく似ている。しかも双方共に2010年の開館である。どちらがパクッタのか。中国館は安藤忠雄氏設計のセビリヤ万博日本館のパクリと云われていたが、ベトナムもパクッタのか?。
ホアンキエム湖及び旧市街から直接のバスはない。キムマのバスターミナルから#33バスで、博物館前のバス停にて下車。
多分に明器と思われる写真の家形土器を見てびっくりした。キャップションを見ると1-3世紀とある。
下写真の後漢時代土器の囲まれた庭には豚、階段を昇った塀の上には鶏が造形されている。ベトナムのそれと比較し、全く同じではないがイメージは似ている。このベトナムの先進性をどのように考えればよいであろうか。
屋根付の門構えに土塀が取り囲み、奥の母屋と思われる建物は二層である。1-3世紀と幅を持たせた年代観であるが、日本では卑弥呼の時代である。つまり日本では良くて、弥生式の高床住居であるが、それと比較すると遥かに進んでいる。これを見て、先年愛知県陶磁資料館で見た、灰釉や緑釉の建物陶器を思い出した。その灰釉猪圏と呼ぶ後漢(1-2世紀)の建物型陶器を下に掲げてみる。
この時代、つまり後漢から三国時代のベトナムの歴史をみてみたい。紀元後の40-43年にかけて、後漢の太守に対してベトナム人による抵抗が表面化した。今のハノイの北西方向にあたる土豪の姉妹であった徴姉妹(ハイバチュン)は姉の夫・詩策(テーサック)が、交趾の太守に処刑されたことに挙兵し、妹と共に反乱を起こした。反乱軍は交趾郡太守を追放し、姉を徴王として新政権(40-42年)を樹立したが、洪武帝は41年名将・馬援に交趾討伐を命じ、苦労の末に徴姉妹軍を破り、姉妹は43年2月に馬援軍に捕えられ惨殺された。
その後の2-3世紀かけて、中国人支配層や屯田による中国からの移民が増加の一途を辿り、ベトナム人とせめぎ合う時代が長く続いた。この頃、交趾郡は後漢の建安八年(203)交州と改称された。その交州から284年に南にかけて広がった趙嫗(チャイアウ)の反乱は独立運動の先駆けであった。
写真の家形土器が作られた時期の、ベトナム北部の歴史の概要は上述の通りである。ベトナムに於ける中華の影響は、日本の比どころではなく、唯一中華とも思われる影響を受けたことが想定される。この文化的影響は後世の陶磁器にも覗うことができる。
2010年の建都1000年祭の時に開館した。展示物は見るものがないとの酷評もあるが、個人的には立派なものと評価している。それは、ハノイ歴史博物館の収蔵品より質、量ともに優れており、特にドンソン文化を代表する銅鼓、青銅器と2-3世紀以降の陶磁器は圧巻である。そして開館以来今日(2013年6月15日現在)まで無料である。
<続く>
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