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錫鉛釉緑彩陶窯址発見で思うこと・その2

2016-06-20 07:44:48 | ミャンマー陶磁
<続き>

字面ばかりで恐縮である。
話しがやや飛んだので引き戻す。当該ブロガーがこの錫鉛釉緑彩陶で思い出すのは、関千里氏の著書「東南アジアの古美術」である。関氏の著述の中で次の2項目について、読後注目し今日に至っている。それは・・・、
1.錫鉛釉緑彩陶の幾何学文様には、イスラム時代の11世紀から15世紀にペルシャで作られた軟陶の焼物に装飾されているアラベスクの趣がある。さらにペルシャは白釉彩画や白釉藍彩の技法を持ち合わせていて、白釉緑彩陶に与えた影響は大きいように思われる。
2.白釉緑彩陶の緑彩を施した陶器は前期、中期、後期の三種類に分けられる。そして製作期間は僅かで50年、長くて100年かもしれない。
・・・と記されている。
Sumitr Pitiphat 教授は先日紹介した書籍で、これを15-16世紀としている。では錫鉛釉緑彩陶が焼成された時代は、どのような時代であったろうか。それは当該ブロガーが思うに、関千里氏が言い当てているように思われる。再び「東南アジアの古美術」P340から引用して書き進めたいが、一部他の資料も援用して記す。
"タイ族の一派であるシャン族が台頭しアバ王国を建国した。そのアバが下ビルマに食指を伸ばして、ペグー王国との戦乱が続くことになった。中でも14世紀末の覇権争いは40年余り続く。長年の抗争で両国は疲弊したが、ペグー朝の王位継承にまつわる紛糾で好機をつかんだアバの騎馬軍団がペグーになだれ込み、若くして寡婦となっていたペグー朝第8代ラーザーディリ王の娘・シンソープ王女を連れ去ってアバ王国のティハトゥ王の正室とした。
しかしこのことがアバ王室の一人の王妃を嫉妬へと駆り立て、ティハトゥ王は殺害された。以降、王室内の混乱に乗じて1430年、シンソープ王妃は二人のモン族僧侶の助けを受けアバ王国を脱出し、ペグーに帰還した。
1453年、ペグー王国では王位継承問題が発生したが、臣下はシンソープを擁立してビンニャチャンドーの即位名で王位に就けた。”女王の在位期間を関千里氏は1453-1459年と記すが、1453-1472年の19年間であったとも云われている。
“シンソープ女王の治世下、ペグーが国家の中心になり、インド洋を通した海上交易により繁栄する。東のマラッカ王国と西のインドとの交易である。当然のことながら、タイ諸国の交易も、タノントンチャイ山脈を横断して存在していた。ペグー王国はダゴンを外港として交易を行っていたが、ダゴンを交易港にする前はマルタバンが交易の中心であった。“
(中世ランナー王国と周辺国の交易図を掲げておく、チェンマイからはタークを経由してタノントンチャイ山脈を横断してマルタバンへ至るルートと、ファーンからムアンパンを経由してマルタバンへ至るルートが記載されている:チェンマイ民族博物館掲示)
交易品については・・“ペグー王国はマラッカ王国から、赤塗りの粗製陶器、水銀、銅、辰砂、緞子、通貨となるガンサを輸入していた。インドのグラジャードからは銅、水銀、辰砂、アヘン、織物が輸入されていたと云われている。”
話しを歴史に戻す。“シンソープ女王はアバ王国の逃避行を助けてくれた二人の僧侶のうち、ダンマゼーディーを還俗させ、娘婿に迎え国家の大事を任せて、高齢を理由に退位した。ダンマゼーディーはペグー朝14代王(在位1459-1492年)となった”・・・と関氏は記すが、別の書には15代王で在位1472-1492年と記している。
“ダンマゼーディー王は、多くの宗派対立を鎮め、宗教界を浄化し、長老をスリランカに派遣し、ヤルヤー二川の上流で具足戒受けさせた。このように宗教改革に努めた王であった。
しかし1492年、ダンマゼーディー王は王子ビンニャー・ランによって殺害され、16代ビンニャー・ラン2世王(在位・1492-1526年)として即位した。歴代の中で傑出した大王であったと云われている。
その後落日が訪れる。タウングー朝のダビンシュエティー王(在位・1531-1550年)がペグー王国を攻略し、占領したのは16代ビンニャー・ラン2世王が没後の1539年であった。更に1545年マルタバンを包囲して6か月後に陥落させた。しかしタウングー朝のダビンシュエティー王は、1550年モン族太守に謀殺された。ダビンシュエティー王のあとを継いだ名君・バイナウン王(在位・1551-1581年)は、1551年にペグー王国の反乱は鎮圧され、ここにペグー王国は滅亡した。“
関氏はこれらの認識の上にたち、以下のように纏められている(P342)。“想像の域を出ないが、シンソープ王妃の時代から、あるいはそれ以前から下ビルマにおいて白釉陶から緑釉陶製作の序曲が始まっていたのであろう。そしておそらく女王在位中に白釉に緑彩を施した陶器の誕生をみたものと思われる。
この時期ことに繁栄した下ビルマのモン文化は、ダンマゼーディー王の時代更に華やかさを増していたと想像される。従って官窯的性格を秘め、優れた輝きを放っている白釉緑彩陶の緑彩を施した初期作品群は、15世紀中頃に製作され、中期は15世紀後半、後期は16世紀タウングー朝のバイナウン王時代に入って終焉を迎えたものと思われる“・・・と締めくくられている。
ここで当該ブロガーの見解である。ペグー朝ではシンソープ女王までが、建国以降13代・166年で、一代当たり12.8年となる。最も繁栄した14代・シンソープ女王、15代ダンマゼーディー王、16代ビンニャー・ラン2世王までの3代の治世期間は73年で、一代当たり24.3年となる。一代当たりの治世期間をみても、この3代の王の時代に反映した様子が脳裏に浮かぶ。そしてインド、マラッカ王国の交易品に辰砂が含まれていたという。緑彩の顔料に使われていたと思われる。
シンソープ女王の在位期間は1453-1472年である。これを錫鉛釉緑彩陶の初期と考えたい。ダンマゼーディー王の在位期間は1472-1492年で、これを中期と考えたい。さらに後期にあたるのが、ビンニャー・ラン2世王の在位期間である1492-1526年にあてたいと考えている。そのように考えれば、Sumitr Pitiphat 教授が指摘する15-16世紀との見解と同じとなる。




                        <続く>








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