<続き>
この時期(15-16世紀)の隣国はどうであったろうか。ランナーは9代・ティローカラート王(在位・1441-1487年)、10代・ヨートチェンラーイ王(在位・1487-1495年)、11代・ケーオ王(1495-1525年)の時代であった。
ティローカラート王の時、大越の黎太宗(レ・タイントン)はランサーン王国侵攻後ランナーへも侵入するが、逆にこれを追いベトナムまで撃退している。王は仏教保護に力を入れ、ワット・ジェットヨートで第8回世界結集を行い、仏教文化を花咲かせた名君で、その治政下はランナー朝で最も繁栄した。
次の10代王は可もなく不可もなしで、8年ほどの短命であったと云う。11代・ケーオ王は、カムペーンペットやチャリエン(シーサッチャナーライ)まで版図に加え、仏教保護に力を入れた名君で、仏教繁栄についての名声はペグーまで聞こえたという。
何やら時代は同期するのであろうか?ペグーが繁栄していた時、時を同じくしてランナーも最盛期を迎えていた。このような時であるからこそ、交易は活発になり、文化の交流も盛んであったろうと想定される。ランナーやチャリエン(シーサッチャナーライ)の陶磁技術とペグー王朝下の陶磁技術に、何らかの交流関係があったであろうと云えば、飛躍し過ぎであろうか? チャリエンの窯形状とパヤジーの窯形状の類似性をどのように考えればよいのであろうか?
ここでMon族とはどのような民族であるのか? 俄然興味が湧いてくるが、それと反比例して情報は少ない。Hmong族については、チェンマイに友人がいる。彼の顔つき肌の色は、日本人と差異はなく、Hmong族が倭族と類縁関係にあると云われても、違和感を覚えないが、Mon族はどうであろうか?
インターネットで種々検索するが、ヒットしない。唯一ウィキペディアに少女の写真が掲載されているので、それを借用して掲げておく。
Monと云えばドバラバティー。そのドバラバティーの仏像、Mon国家であったハリプンチャイ王国の仏像やテラコッタ像は太めで、左右が繋がる眉が印象的である。
(ランプーン国博展示のMon様式のテラコッタ仏頭)
シンソープ女王は、若かりし頃、シャン族国家のアバに連れ去られたという。それなりの美形であったであろうが、まさか眉が繋がっていたとも思えず、空想の像が結べない。少女の写真を見ると、確かに眉は濃ゆくて幅広に見えなくもない。しかしMon様式の仏像ほどではない。よってシンソープ女王の容姿のイメージが、なかなか結べないでいる。
過去、冬季の6カ月間ハノイに滞在していた。同じサービスアパートに奥さんが日本人で、旦那がキンさんというビルマ族の人がいた。日本語堪能であった。そのキンさんが、ヤンゴンに民族村があり、Mon族住居や生活スタイルが見られるという。いつでも案内しますとのことであったが、本当のMon族に会いたければ、モウラミャイン(Mon州)に行く必要があろう・・・等々想いは巡るが、実現するかどうか靄っている。
<続く>
この時期(15-16世紀)の隣国はどうであったろうか。ランナーは9代・ティローカラート王(在位・1441-1487年)、10代・ヨートチェンラーイ王(在位・1487-1495年)、11代・ケーオ王(1495-1525年)の時代であった。
ティローカラート王の時、大越の黎太宗(レ・タイントン)はランサーン王国侵攻後ランナーへも侵入するが、逆にこれを追いベトナムまで撃退している。王は仏教保護に力を入れ、ワット・ジェットヨートで第8回世界結集を行い、仏教文化を花咲かせた名君で、その治政下はランナー朝で最も繁栄した。
次の10代王は可もなく不可もなしで、8年ほどの短命であったと云う。11代・ケーオ王は、カムペーンペットやチャリエン(シーサッチャナーライ)まで版図に加え、仏教保護に力を入れた名君で、仏教繁栄についての名声はペグーまで聞こえたという。
何やら時代は同期するのであろうか?ペグーが繁栄していた時、時を同じくしてランナーも最盛期を迎えていた。このような時であるからこそ、交易は活発になり、文化の交流も盛んであったろうと想定される。ランナーやチャリエン(シーサッチャナーライ)の陶磁技術とペグー王朝下の陶磁技術に、何らかの交流関係があったであろうと云えば、飛躍し過ぎであろうか? チャリエンの窯形状とパヤジーの窯形状の類似性をどのように考えればよいのであろうか?
ここでMon族とはどのような民族であるのか? 俄然興味が湧いてくるが、それと反比例して情報は少ない。Hmong族については、チェンマイに友人がいる。彼の顔つき肌の色は、日本人と差異はなく、Hmong族が倭族と類縁関係にあると云われても、違和感を覚えないが、Mon族はどうであろうか?
インターネットで種々検索するが、ヒットしない。唯一ウィキペディアに少女の写真が掲載されているので、それを借用して掲げておく。
Monと云えばドバラバティー。そのドバラバティーの仏像、Mon国家であったハリプンチャイ王国の仏像やテラコッタ像は太めで、左右が繋がる眉が印象的である。
(ランプーン国博展示のMon様式のテラコッタ仏頭)
シンソープ女王は、若かりし頃、シャン族国家のアバに連れ去られたという。それなりの美形であったであろうが、まさか眉が繋がっていたとも思えず、空想の像が結べない。少女の写真を見ると、確かに眉は濃ゆくて幅広に見えなくもない。しかしMon様式の仏像ほどではない。よってシンソープ女王の容姿のイメージが、なかなか結べないでいる。
過去、冬季の6カ月間ハノイに滞在していた。同じサービスアパートに奥さんが日本人で、旦那がキンさんというビルマ族の人がいた。日本語堪能であった。そのキンさんが、ヤンゴンに民族村があり、Mon族住居や生活スタイルが見られるという。いつでも案内しますとのことであったが、本当のMon族に会いたければ、モウラミャイン(Mon州)に行く必要があろう・・・等々想いは巡るが、実現するかどうか靄っている。
<続く>
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