東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

自分史ー9

2017年12月29日 09時08分13秒 | 自伝
12月29日

 結婚生活の続きである、今も、一つの布団で2人寝ている、互いに隣にいたほうが良いという生活はしあわせである、

 昔の三遊亭りゅうきょうの落語小話を、中学生のころ聞いたものだ、

 年末、はっつぁんは旦那の所に行くことになった、ここの家には女房も世話になっている、出かけると、旦那の家に新しい熊の皮があった、はっつぁんは、しきりに熊の皮をなぜていた、
 はっつぁん「あ、女房がよろしくといっていました」

 この意味が分からないので、母にきいたものであった、(続く)

 

自分史ー8

2017年12月11日 13時16分26秒 | 自伝
 結婚のことを書いてみよう、

 私たちはリコー昔は理研光学といったが、その旧社名のときの付き合いであった、当時私は横浜営業所に転勤になった、そこで、社内にあいさつに行ったのだが、その時、銀座営業所の電話交換室も含まれていた、

 電話交換係の皆さんはのことは、当時ものすごく声がきれいだったので、姿かたちは見えないものの我々があこがれていた、電話交換手はどの会社でもあこがれの的だった、なにしろ、社内から発信する場合でも交換手に頼むのだから親密になる、

 その中でもひときわ光った声の女性がいた、もとより名前も顔もわからないのだが、その時横浜営業所に転勤になったと、その子にあいさつをした、

 そうしたら、

 その子が、Kさんという人を知っていますか?と言うではないか、Kさんとは、いっとき私の家に住むようになった女の子である、私の家の後、高円寺の家で、家の家内と一緒に住んでいたのだ、なんという偶然であろうか、そんな縁から

 リコーで一番声の良い子と知り合えたのである、

 交換室に初めておとずれ、彼女と初めて会った、声もさることながら、彼女は私の好みの、おっ〇いとお〇りの大きい女性であった、

 はじめてあった時から、私は彼女と結婚するような気がしていた、彼女もそうであったらしい、彼女のことは社内のだれもが憧れていた、私はひときわ声が気になる人だった、今でもうちの電話に出る声はかなりのレベルであると思う、

 それから二人はデートを重ねた、電話交換室では5時ちょうどにタイムカードを押して外に出ることができたので、私も早く帰れるように勤めた、彼女の家(部屋)は高円寺の駅からすぐのところだった、退社後必ず彼女の家によることになった、時間のたつのは早くて、彼女の家で、つい長居をしてしまい、家に帰るのはいつも終電であった、彼女の妹が同居していたのだが、いつも長風呂に行った、気を利かしてくれたのであろう、

 結婚の申し込みは横浜でのデートの帰りの横須賀線電車の中であった、

 小さな声で「はい」という返事を得たときはうれしかった、

 新婚生活は麻布の小さい家で、両親と同居、別居したかったので、住宅公団の分譲住宅を申し込んだ、幸い千葉市花見川の3LDKが当たった、ローンの申し込みの時支店長に報告したら若くしてと驚かれた、

 若くしてローンを組んで住宅を買ったのは、小学校の友達 K のちえだ、読売新聞に勤めていた K は、日本はインフレになるに違いない、ローンで家を買えと言っていた、 K が同じく公団住宅を買うよりかなり早かったな、

 公団の分譲住宅の次は、土気の分譲地、その次は厚木の分譲地、銀座のワンルームマンションと、次々乗り換え、若干のもうけもあったものだった、(続きます)


 最近80才になった、ホテルニューオータニで写真を撮ってもらったので、半分だけ見ていただこう、





 なんとかうまく生きている、明日から東北旅行、ところが、昨日新玉川温泉から電話が来て、大雪で、車では来られない、田沢湖に車を置いてバスで来てもらいたいともことだった、ところが、行きは、田沢湖12:35.かえりは、新玉川温泉9:35の2本しかないのだ、帰りはいいとして、行きはどうしてもこの時間には行けそうもないので、キャンセルした、

 ところが、今旅行ブームなんですね、盛岡市内のホテルはどこも満員、やっと一つとれた状況です、(続きます)

 



 

T さんご夫妻と食事・ファミリーヒストリー

2015年08月29日 14時53分56秒 | 自伝
六本木のF寿司に食事に行く、

昔話になったが、Tさんの曽祖父は N 電気の創設者、エジソンの弟子というひとである、 

T さんの家には今でも曽祖父の肖像画があるが、それは高さが3メートルもあるというすごいものだ、今でも Tさんは F 国大使館の隣という、東京でも最高級の所に住んでいるが、戦前は後ろ全部が土地であった、テニスコートもあったということである、

毎週金曜日の夜10時、NHKテレビに、ファミリーヒストリーという番組がある、きのうの放送では つるの剛史 の祖先を調べた放送だった、彼のお父さんは59歳でなくなったが、銀行員、自動車グ品販売の会社でがんばっていた、

曽祖父は上海に渡って、音楽に親しんでいたとのこと、T さんのファミリーもヒストリーにしたらずいぶん面白いものであろう、

私の自分史もぜひ読んでいただきたいとお勧めしてきた。


昭和、平成を生きる、自分史-7

2013年03月10日 14時47分37秒 | 自伝
 大学入試である、担任のT先生(あだな、お元気で今でも学年の会に出てこられる)に相談すると学習院大学がよかろうというので、こちらを受けた、こちらではあまりがつがつ勉強をする人はいないと思われ、前の総理(今の副総理)のように漫画ばかり読んでいる人も現れる、漫画ばかり読んでいても、うちの3男もそうだが、まともな生活はできる、ちょっと話は飛ぶけど、漫画家の杉浦日奈子さんの絵が好きだ、実に上品で、江戸時代のことをとても愛していて、ものすごく上手い、見ていただきたい、

 M君との仲も長い、入学式の日にあって、たまたま英語で同じクラスだったのでつき合った、彼はめったに大学に来なかったがよく卒業できたものである、愛知県一宮にあった家は、もとは某宮様の家だという、妹が7,8人いるというたいした家族である、一番上の妹から手製のネクタイをプレゼントされた時はうれしかった、彼とは将棋友達だ、将棋は彼に教わったのだが、彼はプロ棋士に習っていて、アマチュア4段である、いま、今度どこで彼との名人戦を戦うのか考えている、このところ互角なのでとても面白い、彼の奥さんが利き腕を骨折してしまったので出かけられない、年をとるとこのようなことがあるので気をつけよう、毎年夏になると彼の家に6人の仲間と遊びにいった、下呂の別荘になることもあった、ずいぶん迷惑であったろうとおもう、6人が1週間も10日もいて、彼の家にはアメ車があり、運転手がいて、毎日どこかに連れて行ってくれるのだから、

 T君という人は物知りだ、どんなことでも「いやそれわね」といって解説してくれる、M君以下3人は経済学課、T君以下3人の政治学課合計6名が卒業まで仲がよかった、6人は目白駅を降りると右の大学に行かないで、左のM君の下宿に言って終日だべったりマージャンをしていた、

 Aという女学生も忘れられない、授業の時つかず離れず彼女を見ていた、それはストーカーじゃないの、清楚という字を見ているような人だった、ノートを借りたこともあったけど誘う勇気がなかった、そういえば先日B術部の会合の時ずいぶん久しぶりに会った、Aさんから話しかけられてびっくりしたな、もうすこし長くお話をしたかった、

 ゼミはK先生という方である、東大の先生で講師でありながらゼミを持たれ、長く続いてたくさんの学生が今でも参加している、去年99歳でなくなられた、大きな外車のハイヤーで大学にこられる、多忙な方だった、先生のお宅にお邪魔すると模擬店ができて広い庭で遊んだ、30人ぐらいはいってもおり昔へいきだった、かわいいお子さんがいたが、先日の会合でお会いすると、ホテルOの総支配人になっておられた、

 就職について、M君のお父さんにお願いした、わざわざ東京に出てきていただいて、ご友人のTラジエターの社長室に連れて行ってもらった、いいですよといって採用は決まったのだが、大学に募集が来ていたR光学の試験を受けて、決まるとあっさり断ってしまった、M君のお父さんには大変迷惑をかけた、こんな時に謝っても申し訳ないけど、もうひとつ姉の嫁ぎ先のお父さんがお勤めのAブレーキにも案内していただいたのだが断ってしまった、2つともいい会社であったのに、申し訳ないことをしました、

 R光学、面白い会社である、今でこそ1兆円を超えるような売り上げを持っているけど、昭和35年当時はそんなにたいしたものではなかった、しかし、当時考えられないような、日経新聞に広く人材を募集という1ページ広告を出した、これは大変評判となり、たくさんの応募者があって、われわれが書類の整理をしたりした、

 会社のことを書くと、これがとても面白いんだけど(自分で言ってるだけでしょう)社史の一部みたいなことになるし、このあたりにしておこうかと思う、

 読んでいただいて本当にありがとうございました、

昭和、平成を生きる、自分史-5

2013年03月08日 20時16分59秒 | 自伝
東京の住所は芝区三田豊岡町○番地、父の妹の家だ、この一角はごく狭い場所なんだけど不思議に焼け残っていて父の兄、妹と2軒の家に住んでいた、われわれが割り込むにはあまりに狭く、まもなく近くの大きい家に移った、その家はたくさんの部屋があり(勿論一階の一室を借りた)2階には当時の有名アナウンサー高橋敬三氏も住んでいた、このとき父は例によって広島、北海道に働きに行っていた、

母は裁縫の仕事で夜なべが多かった、しかし昼夜兼行で働いたためかなりの金額をためたと思う、姉も東京に来てすぐと近所の安田銀行に勤めた、2,3年の後少し余裕が出て、夏の夜は3人で麻布十番までお散歩をして欠き氷を食べるのが楽しみであった、

母の妹一家は小石川水道町で、洋服屋をやっていた、だんなはオートバイが趣味という飛んだ人、この店は当然焼け出され、その前に新潟県高田市に疎開していた、夏にこの疎開先に2度遊びに行った、当時の信越線は、日本一の急勾配碓氷峠をアプト式で上る、これが楽しみだった、この小母一家は東京の豊岡町のすぐそばに越してきて店を開いた、繁盛していたのだが、おじさんは若くてなくなってしまった、

小学校は御田小学校、三田と書かなかったのはいわれがあるのだろう、この学校は焼け出され、高輪台にある高輪台小学校に間借りをした、この小学校は関東大震災の復興に立てられた何校かのひとつで鉄筋コンクリート、大変大きな窓のあるモダンな建物だった、私が通った頃は迷彩色にむられていたなあ、間借りだから運動場は使えず屋上である、ボールが落ちると大変である、ここからは12時に勝鬨橋のあがるのが見えた、この学校には4番の都電で通った、三の橋ー二本榎間の電車通学は大変楽しみで、入り口にがんばっていた私たちは運転手のドア開閉を手伝った、ブレーキをかけて止まる寸前に掛け金をはずすと、反動でがちゃんとドアが開く、運転手もありがたいと思っていたのだろう、なんともいわれなかった、

姉がお嫁に行った、京王線代田橋のちかくである、当時の京王線は都電みたいな車両であったが、夏は3両連結の全部の車両がドア開けっ放しで走るのだ、涼しかったね、しばらくして2600型という大型車3両連結ができて、これはさすがにドアエンジンがついていた、当時の鉄道ファンはMTM編成なんていった、モハ(モーターつき)+サハ(付随車)+モハという意味である、

さて、クラス一組(二組まであった)にはKという女性がいて、学年で一番大きく、うつくしかったようである、集合写真ではちょっと首をかしげてまるで高校生みたいだった、(だから女の子の間ではあまり好かれていない)この子と私と二人で警察まで出かけることになった(なにか章をもらいに行ったのだ)二人は道路の左右に分かれて、なんとも気まずくあるいたものだ、この子はその後近所のS会病院に勤め、私が会社に就職して少したったころ、この病院に一週間入院したことがあって、毎日見舞いに来てくれたな、もしかしたら、この子と、なんていうことを考えていたんだけど、

組み分けは6年まで変わらなかったので、みんな仲良しであった、今でも年一回は会うようにしている、Y新聞のK君は親友で、この間なくなったときは弔辞を読んだ、彼は健康で、検診なんか一回もいっていないというのが自慢だった、日本テレビの午後のニュースで今の評論家桜井よし子さんとでていたな、

6年のころかな、父が、道でばったりと、満州国時代の会社の社長にあって、東京の、しかも近くのDというこの会社に勤めるようになった、父と母は久しぶりに同居するようになり、喧嘩は次第にすくなくなっていった、
それでも仲がよい訳ではなく、二人が一緒に出かける場合でも必ず別々に帰ってきたものである(はぐれて)

昭和、平成を生きる、自分史-4

2013年03月07日 22時13分43秒 | 自伝
ロスケたちの進駐は書いたように大変なことがあったんだけど、まともな兵隊たちが来たこともあった、大人たちはにわかにロシア語の勉強をして、集団でロスケたちに物を売る屋台を作ったりした、ロスケが部屋に来ると、オーチンハラショ(大変よい)ムスコなんていって私に話しかけたりした、そのうちトラックを持ってきて計画的に満州国の物品を掻っ攫っていた、

インフラであるが、水道は出た、ガスはどうだったろう、ガス会社のタンクがだんだん減っていくのを不安な目で見ていた、電気はあったような気がするが、夕方電気がだんだん暗くなった、電圧が極端に下がったと思われる、それでも電力会社の職員は全力でがんばってくれたのだろう、

われわれは故郷に帰る日を待ち望んでいた、昭和21年の夏までの一年間はものすごく長かった、

私たち母子3人は急ごしらえのコタツにあたり、毎晩トランプをしていた、父はセメントをどこかでもらってきて(かっぱらって)臼をこしらえ、餅をついた、これは失敗、もち米を持っている人はほとんどなかったろう、それから麹を作った、押入れの布団の中に麹の蒸篭をたくさん入れたものである、ものになったものは、たばこ巻き器だけであろうが、考えてみれば父は器用だったなあ、

引き揚げはいろんな係りの人が力を合わせて行ったのだろう、いろんな通達が来て、要はリュックひとつの荷物が許可されるのだった、お金は千円だったか、大人たちの会話を必死に聞いていた、リュックなんてものはなかったので、母が帯芯を使って4つを作った、例によって東新京駅に集合するのだが、汽車は、無蓋車(床だけの貨車)少ない男が、材木を使って人が落ちないように側を作るのだ、高い塀はできなかったのではないか、父は貨車の後ろにあるブレーキハンドル(上が丸い)の上に腰掛けて眠っていた、

引き上げ港はコロ島というところである、今では新幹線ができて4,5時間でいくと思うが、なんと1ヶ月もかかった、途中の食料はどうだったのだろう、このような貨車で途方もない時間がかかるので、途中赤ん坊がなくなったりする、大人たちが停車駅で穴を掘って埋める、

引き揚げ船に乗るまでの順番待ちもあったんじゃないかな、船に乗り込んで、狭い船室(貨物船のそこ)に落ち着いて、人々はなんと気を抜いて安堵したことだろう、私もほとんど大人と同じ感情であった、船内の演芸では新しいりんごの歌が歌われた、船は3日ほどかかって、博多港に着く、懐かしい九州の土地が見えるとみんな半狂乱になって喜んだ、ところが、検疫のため1日停泊させられるというと、みんながっかりだ、この船の中で亡くなる人もあって甲板から水葬にした、私自身も熱を出して死ぬところだった、発明されたばかりのペニシリンがあって助かったらしい、

博多港では、汽車に乗り込んだか、一泊したか定かではないが、有名になった虱退治の薬品、なんていったっけ、BCGじゃないペニシリンじゃない、DDTだ、全身真っ白にさせられた、アメリカではこういう薬を大量に作っていたのだ、

広島原爆についてはある程度知っていたので広島駅で汽車が止まると、みんな窓から一生懸命に町の様子を見ていた、途中の大都市はみんな焼かれてしまって、これからの生活をおもう、なにしろリュックひとつなのだから、私たちは東京にまっすぐ行っても困るからと、一緒に引き揚げた静岡県芝川町の人の家に一時身を寄せることになった、

身延線に乗り換え一時間ほどで芝川に着いたところは、この世の天国だった、清らかな用水が流れ、青々とした田畑に作物が実っていた、都会と違って戦争の影響はないみたいである、親切な人の作ってくれた真っ白いおにぎりは今でも覚えている、

父が東京に偵察に行った、幸い父の妹の家が戦災にあっていなかったので、身をよせることになった、私たちの乗った汽車は夜遅く品川駅に着いた、直前にあわてて支度をしたものだから、父が降り遅れてしまい、新橋から引き返してくるのを待って、その時刻は0時を過ぎて山手線はなくなっていたので、芝区三田豊岡町の家まで歩くことにした、第一京浜国道、いまはビルがぎっしりと立っているが、当時は家一軒もなく全部焼け払われていた、外灯もない、瓦礫がはみ出した歩道を歩いた、月は出ていたのだろうか、真っ暗ではなかったような気がする、


昨日の様に覚えているが70年近く昔のことだ、私は、いつかまたこのようなこと、呼び出されて、24時間以内に集合といったことが起こると思っていた、平和が続いていることはほんとに幸せであるとおもう、


昭和、平成を生きる、自分史-3

2013年03月07日 08時48分38秒 | 自伝
満州国新京特別市の小学校は新和在満国民学校といった、勿論鉄筋コンクリートで、一般的な日本の学校より上等であった、日本人街のわれわれは日本と同じ生活いや以上の生活を送っていた、内地では空襲、学童疎開、食糧難、で大変であったのに対し満州では少しの間平和な暮らしである、この平和な暮らしは終戦まで続いた、

そのちょっと前、応召があった、新婚の家庭でも赤紙が来て、その家では奥さんが泣き叫んでどうにもならない、近所の人がみんなで引き剥がしたりした、

終戦の少し前である、ロシアが攻めてくるから疎開をする話になった、明日の朝までにリュックサック一つを持って東新京駅に集合という命令である、女性と子供だけで逃げることになった、うちでは当時交通部(運輸省)の前庭に作った畑のトマトを収穫して食べた、たくさん取れたけどもっていくわけには行かない、列車は2日ほどかけて北朝鮮の定州というところについて、小学校に落ち着いた、体育館である、布団がないのが困った、うちの母は、わらくずを拾ってきてにわか作りの布団を作った、これでどんなに助かったかわからない、この学校には無数の赤とんぼが飛んでいて、きれいな川では女が洗濯をしていた、

終戦の日がきた、翌日すべての家に韓国旗が揚がっているではないか、これにはびっくりした、誰が指示したのだろうか、それからしばらくして、われわれは満州国に帰ることになった、これからは本当に大変なことが起こったのだが、私はあまり感じなかった、父が帰ってきた、男性のほとんどはシベリヤ送りとなった、

疎開の人たちの演芸会が行われた、私はハーモニカで予科練の歌を演奏した、一時の演芸会でみんな結構すばらしい芸を披露したようである、

近所の家では庭に5つの土饅頭ができていた、自決とのことだ、しばらくしてロスケ(ロシア軍)が入ってくるという話を聴いた、うちの姉は髪を切り、男の服を着て押入れに隠れ、どうにか被害を免れたようである、ドアは厳重に板でおおって防御したのだが相手はマンドリン(自動小銃)をもっているのだ、狙われたらおしまいである、彼らに連れて行かれて翌日半狂乱になって帰ってきた婦人が何人にもなった、大人は井戸に飛び込もうとする女性を必死でおさえたのである、

ロスケたちは満州のほとんどの財産をもっていった、たとえば、近所に電話の自動交換機が設置してあったのだが、丸ごと取り出してもって行った、

われわれは長い長い一年間をこういう場所で過ごしたのだが、その間国民軍と八露軍(中共軍)の戦闘があった、家の外で撃ち合っているんだからたまらない、建物に弾痕がいくつもできる始末、家から見える原っぱでは中央に、一人の兵隊が倒れていた、一日目は何とか起き上がっていたのだが、2日目には起きられなかったようである、

ひとついえることは、日本ほか先の大戦でひどい目にあった人たちは、本気で絶対に戦争なんかいやだと思っているのに対して、毛沢東率いる中国は国民政府と戦い、そのずっと後でも文化大革命によって
2000万人の自国民を殺した、今尖閣諸島にちょっかいを出している彼らのやり方を見ると、本当に油断ならない、うまく付き合っていく方法はないだろう、

少し落ち着いてくると、何とかして食料を買わなければならない、満人が売りに来るのに、なけなしの着物を出して卵などと交換した、父はタバコ巻き器を通って売った、タバコは少しあったが、紙巻はない、そこでコンサイス辞書の紙(これがちょうどいい)でタバコを巻くための機械といっては大げさだが、長さ15センチくらいのものだ、桐のたんすを壊してたくさん作り母と姉が売りに行った、のちに東京でもたばこ巻き器を見たが実にコンパクトに進化していたなあ、こういう露天がたくさん出ており、私の友達のM君のところでは漬物を作って売りに行ったとの事だ、

このとき、新京よりさらに北の開拓地から逃げてきた人々は悲惨だった、途中匪賊に2回も、3回も会うのだからたまらない、ほとんど身に着けるものもなく、ぼろくずのような姿で新京に来たのだ、いや、たどり着いた人たちは幸運だった、殺されたり、自決した人も多く、中国人の家庭に預けられた子供は残留孤児となって何十年か後に日本に帰った、

だから国民学校の一年間は学校に行っていない、2年のはじめごろ先生の家に行っての寺子屋が始まったけど、この新和在満国民学校時代の先生、ほんとにお世話になった、誰かネットに出していないかと定期的に調べるのだが勿論発見できない、うちの下の階に住んでいたのは同級生の長谷川寛治君である、名乗り出てくれたらいいのだが、


昭和、平成を生きる、自分史-2

2013年03月05日 08時39分21秒 | 自伝
順序として父、母のことである、

この2人は本当に仲が悪かった、若いとき父はほとんど長期出張をしていて、時々帰ってきた、だから小さいときは母子家庭みたいなものであった、兄弟は姉が2人それぞれ10、11くらい年が違った姉弟である、私が生まれたのは父が46、母が41位のときで、高齢出産である、考えると父は10年ごとにやっと帰ってSEXをして、2番目の姉ができ私ができた、不思議なものだね、たった一回のそういうことで、私の人生が出来上がったんだもの、

父の留守の間母は何をしていたのかというと、和裁、その前は富山県伏木(今で言う高岡市伏木)で、学校の先生をしていた、新しい学校ができると、転勤があったらしい、だから、勤務地の城端、小杉、という名前は記憶している、当時開通したばかりの鉄道越中線で通勤していた、あるとき、降り遅れて汽車から踏み切りに飛び降りた話を何回も聴いた、当時の教え子の一人は死ぬときまでお手紙をくれていた、

その母は女ばかりの姉妹の一番上であった、父は兵庫県明石の出身で婿である、その後父の転勤で東京へ、そして静岡に、母は教員を辞めて父の元についていったのだけど、父は仕事とか家に関する考えがめちゃくちゃで、それが元でけんかが絶えなかった、私は静岡で生まれた、その後父は新しい世界を求めて満州に行き、満州国新京特別市和光胡同1111という場所のアパートに落ち着いた、ここでも父は外に出がちで、母の和裁が生活の大部分を支えたようである、

私は4才だったが、一番上の姉は女学校を卒業して保険会社につとめていた、満州国にいく事に関しては大変な夫婦喧嘩の種を作ったに違いない、上の姉は聡明な人だったようである、母はこの人に期待を寄せていたのだが、大事なときに満州に行くなど変化があってうまくいかなかった、あるとき感染症にかかりあっという間に死んでしまった、姉がもっていた大きなエンパイアステートビルの写真は今でも覚えている、真ん中の姉は満州に関してはいい思い出がないらしく、後に私が新京(今の長春)にいって、姉の錦が丘高等女学校の写真などを見せてもけして真剣に見ようとはしなかった、そうだろうね、終戦のとき、われわれは大変な思いをした、私と同年代の子供のうち多くが、中国人に預けられ後に残留孤児として日本に帰ってきた、これは後で書いてみたい、

満州国に行った後、2,3回母と東京まで帰ってきた記憶がある、汽車は一日がかりで鮮満国境の新義州まで、さらに朝鮮半島を横断して釜山へ、関釜連絡船に乗り下関へ、それから東京へ帰った、連絡船は米軍の攻撃に対して全員救命胴衣をつけて訓練した記憶がある、

新京特別市の近代的な生活に慣れていた私は、はじめてみる朝鮮鉄道、下関についてさらに小さく、トロッコのような日本鉄道の小ささにびっくりしたものである、満州国にはそれほど資材をつぎ込んでいた、

首都である新京特別市では、80メートル幅の大道路、途中大同広場には円周1キロに及ぶ巨大な広場があり、すべて新しく設計した街で、電力は地中線になっており電柱がなく、下水が完備し、水洗便所が普及していた、勿論ガスも、アパートではペーチカがあって二重窓ガラスで寒くはなかった、私は鉄道が好きだったので、3日に及ぶ片道の間熱心に外を見ていた、下関に上陸すると、あと2日もかかるのに、もう東京に戻ったような気がしたものである、

走り始めた新京の市電も最初からビューゲルをつけた大型車で、都電のポールつき単車や、木造ボギー車がいかにも古臭い感じだった、学校では冬に校庭を氷らせてスケートをする、私は運動神経に乏しくほとんどすべれなかったが、姉二人はフィギアの靴で凍った道路を帰ってきていた、


ついこの間まで、終戦時の記憶があまりにも鮮烈で、その前のことは全部忘れたようになっていた、終戦の事も次に書いてみたい。


昭和、平成を生きる、自分史-1

2013年03月04日 10時18分31秒 | 自伝
自分史を書いてみようと思う、

いま75才であるが家族に恵まれた、カナイ(普通に家内と書くべきだろう・笑)70才、
当然であるが2人一緒のベッドである、
仲はいいほうといえるであろう、
毎晩「Anatato kekkonshite yokatta]という、

そういえば、今日は結婚記念日である、
昭和39年3月4日北海道は今年と違ってとても暖かい日々であった、札幌はコートなしで歩けるほど、
十勝にもいった、帰りに青函連絡船、東北本線で帰ってきたのは印象ふかかった、勿論蒸気列車であった。

仕事は介護保険のヘルパー派遣・ケアマネージャー業である、数年前から三男が社長を引き受けてくれて、
私たちは月の数日お手伝いをすればいい、2人住まいであるが、三男が毎日家に出勤してくれる、

健康面であるが、8年前に腎臓がん、3年前に肝臓がんになってそれぞれ治療した、
特に肝臓はラジオ波という治療で抗がん剤を使わず、開腹手術もなく、その後4ヶ月ごとの検査でよい
このところ健康だ、昔は毎日咳が出る、めまい、腰痛、風邪、足の攣り、逆向け、いろんなところ悪かった、
このような悪いところがなくなった、


子供は3人の息子で、

長男46才、with妻、子供が、小4の長女、小2の次女、

次男45才、妻がいて、子供が、T高等専門学校の長男、Yサイエンスフロンテイア高校の長女、E高校に受かった次男、

三男43才、妻あり、子供は、2才の長女、


このように3人とも結婚して、子供がいるというのは現代では未曾有なことである、
長男千葉に持ち家、次男厚木の私の家、三男世田谷に持ち家、
と、住まいに問題はなく、それぞれ仕事を放り出したりしていない、


もっと早く書かなければいけなかったのは、日本国の現状である、

こんないい国になるとは思わなかった、

経済が安定して、失業者がすくない、
少子高齢化といっても中国ほどじゃない、
人口が減って6000万位になったらもっとよいと思う、
泥棒とか、チンピラとかの割合が少ない、
いや中国と比較したら、どんな問題でも数倍引き離している、
40年前、東京の空気汚染がひどい時代に厚木に引っ越した、
だから子供たちの健康上はよかったと思っている、

しかし考えてみると、小学校の友達で今も都内にすんでいるのは、
とても少数である、みんな同じ事を考えていたのだろう、