東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

インターナショナルスクール・2

2013年08月31日 08時07分27秒 | Weblog
古川橋にインターナショナルスクールが出来た、フジフィルムとしてはいい仕事であり、マンションだったら販売は相当大変であったろう、そして、いい仕事のもうひとつは、






元の建物の一つを、事務所として再利用していること、手前左側が元の建物、奥が新築した建物である、

黒く塗っているのはいただけないが、

いただけないといえば、サッシを新品に取替えているのだが、白いものだ、 これも黒にしないといけない、さらに言えば、この建物の一番奥の窓は吐き出し窓、そのままもし開けたら道におっこってしまうという代物だ、学校の建物としては、こういうものが残っているのは問題であろう(これは大きな機材を出し入れする時クレーン車をとめて行ったものと想像する)

山王神社→東京文化会館

2013年08月30日 07時14分09秒 | Weblog
横浜のK君が遊びに来たので、山王神社で食事、ここに連日のように来ている、

昼に来て驚いた、サラリーマンで満員!名前を書いて待たされる、

エスカレーターを利用してどんどんあがって来るのだ、喫煙室ならすぐ入れるとのことで、入ったのだが、非喫煙者の入場も見越して、クーラーを最高にかけてある、これではたまらないので、早々に出た、

築地植村の料理と、蝶ネクタイのウエイター、C国人のアルバイトでないのがうれしい、


六本木東京文化会館でコーヒー、ここでは中年オバちゃん20名ぐらいの会合のうるさいこと、庭で飲んだ、ガラスのサッシをきっちりと閉めると、静かな麻布の空が現れた、



がんを宣告された人に

2013年08月29日 10時53分50秒 | Weblog
オール読み物に、慶應義塾医学部の近藤教授と、東海林さだお氏の対談が乗っていた、内容は想像通りのものである、

すなわち、

検診を受けても無駄
手術をしないほうがよい
抗がん剤は使用しないほうがよい

という論法なのだが、
私など症状が出ない人は何もしない方がよかったのかしら、

唯一肝臓癌については、
手術よりも私の受けたラジオ波しょうしゃく(漢字かけない)
がよいでしょうといわれていてほっとした、

東海林氏が言っていたが、
がんになって先生に「私は抗がん剤は受けません(キリッ!)」
といえるであろうか、というのは本当だろうなあ、




NHKに大文句

2013年08月28日 08時10分00秒 | Weblog
寝室のSONYテレビが故障、直そうかと思ったが2万ー4万かかると聞いて、考えている、テレビというものは向こうが一方的に放送してくる、しかもNHKは強制的に聴視料を取るという前世紀の産物で面白くない、

いま、あまちゃんをやっているが、これだってそうだ、番組の中は韓国グッズのやま、だいたい個人タクシーにヒュンダイとは何事だ、日本では韓国車は売れないのだよ、キア自動車は日本に店をだした

21年間で、1台も売れず

撤退するという話だ、最初のころは連日パチンコの画面が出ていた、竹島を不法占拠しているやつが、俺の島だとデモをする、こんな分かりやすい反日国の宣伝をして恥ずかしくないのか、番組を監修するやつに、ちゃんとした日本人はいないのか、かの国(K国)は、電通をはじめとして日本のメディア、マスコミに人を配置しているそうであるが、日本人はいないのだろうか、社長は何を考えているのか、

腹が立つのは最近の鉄道表示に、中国語、朝鮮語が描いてあることだ、これは不愉快だからやめてもらいたい、世界で2つだけの反日国の言語だけを表示するとは何事だ、だいたい中韓国で、鉄道の表示に日本語が使われているのか、漢字を表示するのだって日本人、台湾人に分かる普通の字を使ったらいいではないか、国際語は英語だけでよい、あるいはベトナム語と、タイ語も加えなければならない、

日本で犯罪を犯すのは中韓の人が圧倒的におおい、NHKは韓国人在日朝鮮人の犯罪者にたいして、偽名(日本人名)で発表をしている、韓国人たちの悪いことをなるべくばれないようにしようというわけである、韓国で犯罪を犯したひとについて、日本人だということを隠して、韓国名で発表したりしているのか?

中韓両国にはもう行かないことにしているが、皆様も中韓の旅行だけは絶対行かないようにしていただきたい、中国はあの大気汚染、水の汚染、お米などどんな水で洗っているか分かったものではない、全ての洗い物、をミネラルウオーターでやっているとは思えない、韓国ではたくさん出す”おかず”類は高級店を含めほぼリサイクルして出しているらしいし、海苔には人糞肥料をつかっている、だからアメリカでは韓国食品を輸入禁止にしているのに、日本では野放し、だからスーパーに行く時はめがねを持っていき中韓食品を見分けなければならない、先日も買ってきた”わかめ”を廃棄した、

テレビの故障から中韓の文句にに行ってしまったが両国の文句は小言老人にとって尽きることはない、

ウズベキスタンのブリキ職人、木工職人

2013年08月27日 08時38分37秒 | Weblog
この国にはいろんな技術職人がいるが、ブリキをきれいに加工する技術はたいしたものである、これは民家を改造したホテル、いわゆるB&Bであるが、ブリキの雨どいはこのようにきれいに加工してある、あまり雨が降らないので、特に塗装もしないで、さびないのであろう、




よくみると軒の部分にあるブリキの長い板にも、照明の飾りにも、細かい模様が一つ一つ切り刻まれている、気の遠くなるような作業だ、これは一つ一つ手作りなのだろうか、それともガツンと裁断するのだろうか、おそらく前者であろう、

それにしても青い空、毎日このようにピーカンの照りである、


木工職人もたいしたものである、これは窓枠だが、全ての窓にこのようなきれいな彫刻がされている、木工でこのように加工するのは至難の業であるが全ての窓がこうなっている、





ところが木の材質が悪く、節が多かったりしてうまく彫刻が出来ない、また内窓と外窓で微妙に位置が違っているのはもったいないな、


安い金額でこのようなきれいな彫刻が出来るので、加工を頼んで輸入することは出来ないだろうか、


機能訓練デイサービス

2013年08月26日 14時51分52秒 | Weblog
近所のN君の事務所の1階に、デイサービスが出来た、





岩盤浴の足湯をやっているそうで、
うちのお客さんも行く人が増えることだろう、

N君と話したが、昨日まで入院していたんだとか、
全快して元気そうだった、

デイサービスとはいいテナントがはいった、
宅配便の中継基地のような話もあったらしいが、
デイであれば、経営が成り立てば、すぐ出て行くことにはならないだろう。

高円寺阿波踊り

2013年08月25日 10時02分25秒 | Weblog
高円寺阿波踊りを見に行った、

いつものとおり地下鉄東高円寺で降り、飯を食ってさて、踊りの道は左右どっちだったかなと思ったのだが分からない、しばらく新宿方面に行って引き返してきたのだが、例年の混雑はなく、シーンとしている、

国鉄の高円寺駅にいこうと思って、歩き出した、依然として、踊りが右のほうか、左の方か分からない、途中川を遊歩道にしたところがあって、ここではさすがに右ですか、左ですかと聞かないといけない場所なのだが、Yさんを連れてきたら一も二も泣く誰かに聞くのだが、左に若い人たち、右に年寄りが行ったのだが、さてどっちだろう、年寄りがよくやる、日取りを間違えたかな、まさか方角を間違えることはないのだが、



道は国鉄のガードに出会った、ここではさすがに聞かないと分からない、「高円寺駅はこっちですか」と聞くと、「いや、向こうです」との答え、ようやく分かった、私の降りた東高円寺ではなくて、もう一つむこうにちゃんとした高円寺の駅があったのだ、あ、「新高円寺」しばらくこないものだから、国鉄の高円寺に対して、東高円寺で降りてしまったではないか、地下鉄もなんだね、阿波踊りは次の駅ですといった看板を出してほしいものだ、

高円寺駅まではずいぶんあって、合計たいそうな運動をしてしまったが、きょうの運動になるので、あまり苦にはならない、駅に近づくと、露天がにぎわっている、人がいる、踊りに通りには直接入れなくて一方通行(で地下鉄方面に戻される、途中の踊り方面に行く道も通行止めである、

去年楽にみられる道を発見していたのに、降りる駅を一つ間違えてしまってはだめだ、

ようやく踊りのとおりに出る道を行くと、こんな状態でぜんぜんだめ、



この後やっとの思いで踊りの最終地点に着きそこではゆっくり見られ、踊りも盛り上がっていいことであったが、残念ながら周囲が暗く、普通の撮影では全部ぶれてしまった、踊り事務局もせっかくの大会である、照明を主要なところには当ててほしいな、

ということで、日ごろフラッシュを使わない私は行きの電車の中でフラッシュのたき方を勉強したのだが、どうしても、ない、、、フラッシュの設定が出来ないのであった(後で考えてみたら手動でフラッシュのふたを開けないといけないのであった)

そこでビデオを撮ってきたのでお見せする、と思ったが、普通のビデオはそのままビデオにならないのが分かったので、ほかのページでみてください、


すこし暗いのでみんなぶれてしまった

最近の阿波踊り、なんと連が150もあって、5000人が踊るという、みんなのりよく踊っていて、楽しそうだ、これでは来年は本物を見ないといけないだろう、

蘭州

2013年08月24日 13時53分05秒 | Weblog
所要で銀座に行った、
そこで懐かしい

蘭州

まだあるじゃない、40年前からあった中華料理の店である、
はいった、来ている人たちはみんなナジミみたいである、


牛肉カルビ定職


かにドン

なんというか安くもない、特においしいということもない、
中のインテリアは40年前と同じであった、

小学校同級生K君のお見舞い

2013年08月23日 10時16分53秒 | Weblog
K君はただ一人校区に残っている人である、
赤羽橋のS会病院に入院していたがもう退院だというので、
K女と見舞いに行った、

その前に昨日行った日枝神社の喫茶店で食事、
ここは築地のウエムラが入っていて食事も出す、
昨日は本妻と一緒に来たからきょうはK女といっしょである?

ここは病気に効くというお札があった、




義母100歳4ヶ月

2013年08月22日 09時04分59秒 | Weblog
100歳記念の記念品を区長からもらった、このところ食べ物を食べない、水しか飲んでいないので心配である、イロウにすれば6ヶ月は持つのであるが、あまり意識のない状態で命だけ永らえても面白くないし難しい選択である、われわれの老後はどうなるのだろうか、もう少し何とかしたいけど、自宅で24時間では介護者のほうが先に参ってしまう、この施設も熱心に介護してくれるので生かされているのであるが、



日枝神社によって何とかもう少し安楽に生きられないか祈祷、
それより付属の喫茶店によってクリームあんみつを食べる、






帰り久しぶりに雨、集中豪雨だった、








アメリカンスクール

2013年08月21日 12時43分17秒 | Weblog
古川橋の富士フィルムの施設跡地が、アメリカンスクールになった、
9月からオープン予定であろう、

狭い空間ではあるが運動場も出来てよかった、
黒い建物はあまりよい趣味ではないと思うけど、
既存の建物(一棟)も黒く塗って使っている、





もう一件の、あわや!

2013年08月20日 21時01分29秒 | Weblog
昨日は若いころの日航機123便に乗りそこなった話であったが、もう一件「すんで」という話がある、これは会社に入社2年目、横浜営業所勤務の時代である、横浜営業所は、横浜駅から東京よりにすこし行った第一京浜国道に面していた、

当時マージャンがとてもはやっていて、横浜でも毎晩のようにやっていた、それも営業所の2階宿直室である、この日もいつものとおり、宿直室でパイを囲んでいたが、もうやめようという時に、誰かが帰ってきてもう少しやろうという話になった、

しばらくすると、営業所の前が騒がしくなった、大変な数の救急車が通る、サイレンが鳴り渡りマージャンどころではなくなった、営業所の前を通る救急車は何十台、何百台、横浜中の救急車が通っているのであった、どうやら、鶴見駅近くで大変な事故があったらしい、

それはいわゆる鶴見事故、国鉄の鶴見駅近くで、貨物線と東海道・横須賀線(当時同一線路を走っていた)が立体交差するのだが、貨物列車が脱線、それに横浜方面から来た東京行き横須賀線が突っ込み、200人ぐらいの犠牲者が出た事故であった、

さきほど、マージャンを続けていなかったら、私は上り横須賀線にちょうど乗り込むところだったのである、

8月12日、悪韓論

2013年08月19日 08時48分35秒 | Weblog
きょう読売新聞の歌壇の投稿に、


日航機墜落のかの日を思う一機違へて生かさるる命  町田市 永井悦子


という歌が乗っていた、思いだした、

この日、ジャンボジェットの墜落を知ったのは伊丹空港でだった、
すこし早く来た私たちは上海行きの飛行機を待っていた、

123便は最終である、
一便早い飛行機に乗っていた、
この人も同じ便だったのだ、人の運命は紙一重である、



「航空の現代」さんの記事、悪韓論

まことに痛快でその通りという記事です、今韓国旅行に行きたいという人はまさかいないでしょうが(私は漢韓には行きません)スーパーに行くにも老眼鏡を持っていって、漢韓の品物は買わないように充分注意しています、「航空の現代」さんの記事は面白いのでお勧めいたします、

タシケントのナボイ劇場

2013年08月18日 09時59分16秒 | Weblog



この劇場は普通1945年から1947年に懸けて、満州国からの強制連行によりつれてこられた日本人捕虜が作ったとされている、

しかしこの外観をみるとあまりにも美しく設計され、彫刻されている、とても25歳の日本人監督が全て作ったとは思えない、たとえば、設計だけで2年はかかるであろう、

そこでHPを調べたら、次の記述を見つけた、


アリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。モスクワにあるレーニン廟と同じ設計者であるアレクセイ・シューセフにより設計された。第二次世界大戦の際、シベリア抑留により日本の軍人が多数タシュケントへと連行され、この建物の礎を築いた。


建設は1930年に始まったそうである、だから建物の相当部分は出来ていたと考えられる、建物の強度はその設計によるから、もともと設計がよかったのだろう(1966年の大地震で、タシケントのほとんどの建物は壊れたがこの劇場だけは無傷で残った、それを元にこの国では日本人が大好きになった)

ソ連が好きではない国民、監督の見ていないところでの日本人の労働、などで、1930年から建設にかかったこと、ロシア人の設計者などが、あえて表現されなかったものと思われる、しかし、細かな彫刻、精密な煉瓦積みなどの工事の現状を見ると、満州国からの抑留者の技術の高さを教えられる、