小島教育研究所

教育関連ブログです。数学を筆頭に学問全般に渡る有用な情報を提供致します。
東海生、名高生、半高生に最も読まれています。

ヴィラ=ロボス(ブラジル)

2011-07-23 | 音楽の楽しみ

ブラジル風バッハ第9番フーガはいかがでしょうか。ブラジルを代表する20世紀の偉大な作曲家、ヴィラ=ロボス。生涯に1000曲以上の作品を残しています。(このあたりも、Bachに限りなく近いですね。)

南米的な土俗的、情熱的な面とBachに学んだ、ヨーロッパ古典派から吸収した技法とが、ヴィラ=ロボスという優れて個性的でかつ優秀な作曲家によって見事に融合、再構成されて誕生した曲。それがブラジル風バッハ第1番から9番。

貴方に、新しい音楽の魅力を伝えてくれるでしょう。

しばらく、ブログ記事をお休みするかもしれません。

次回またお読みいただける日を楽しみにしています。

See You!!

 


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インターネットの父とピンク・レディー?

2011-07-23 | コンピュータよもやま話

日本のインターネットの父と呼ばれるのは、慶應義塾大学湘南藤沢、環境情報学部、村井 純教授のことである。

村井教授の父君、村井 実氏は同じく慶應義塾大学文学部教授で、教育学の大家である。

純氏が小学生のころは父君の勤務(ハーバード大学)のため、家族でボストンに在住していた。当然、英語は堪能である。本人によれば、ガキの英語で、もう一度リファインする必要があると、学部時代、英語学習のし直しをしていた。

学部から大学院に進学したころ、イリノイ大学からUNIXを携えて、斉藤信夫教授が慶応義塾理工学部に赴任された。それまでの指導教官は中西先生であったか、斎藤先生へと指導教官の変更を行った。後年、純氏はUNIXの大家として「プロフェッショナルUNIX」をアスキー出版から出版し、UNIXの普及に少なからず貢献した。

もともと慶應義塾の数理工学科ではDEC社のPDP11を研究用に導入していた。OSのBLISSはUNIXライクなオペレーティングシステムであり、今流行のLINUXのご先祖さまといったところである。

 

話は、横道にそれるが、C言語も、ケン・トンプソン氏がPDP9用に『スペースゲーム』を移植したいがために生んだ言語である。

このPDP9は、かのマイクロソフトのビル・ゲーツ氏が高校時代アルバイトをしたときに使ったミニ・コンピュータででもある。

話を元に戻そう。

その村井氏が中心となって慶應義塾大学工学部矢上キャンパス構内にコンピュータネットワークを張り巡らし、次いで東工大、東大大型計算センターを通信でつなぐ相互接続実験を開始した。(1980,81年頃)

これが今に繋がるインターネットのご先祖様であることを知る人は少ない。相互接続の希望が各大学、研究所で増え始め、しばらくはJUNET(Japan Univercity NETwork)として、緩やかにネットワークは増加した。ジュンネット、あるいはジュネットといわれたこのネットワーク。見事に自分(純、Jun)の名前を入れているのはさすがです。

その後のWIDEプロジェクトを経て、めでたくインターネットが一般に公開されたのが1995年でした。

そういった意味で、「インターネットの父」といわれても、何ら不思議ではありません。

岩波新書から「インターネット」と「インターネットⅡ」(村井純)が出版されていますので、興味、関心のあるかたは、一度是非お読みください。

 

学部時代、そんな、彼が東大の駒場祭に特別出演するという。「機材運びを手伝ってくれないか。手伝ってくれたら、御礼にピンクレディーに合わせてやろう。」と言う。私と現在K大付属の数学教師のM君が協力することとなった。朝6時に日吉キャンパスに車を乗り入れ、約2トンの機材を載せて、いざ東大駒場へ。指定された教室に機材を運びいれ、セッティングのお手伝い。終わると缶ビールを4本くれて、演奏準備に入った。

出演するグループのリードボーカル兼リードギター奏者が村井 純君でした。

グループ名は「小田急沿線ブルース愛好会」というもので、LPレコードも当時すでに5枚発売していました。

(LPレコードは、いまではCDと言ったほうが分かりやすい。)

なかなかのハードロックグループで、歌も演奏もプロ顔負けであった。

ピンクレディーにあわせる約束を確認すると、「こちらが、我々の前座で歌ってくれる、ピンク・ベティーの皆さんです。」と女性2名のグループを紹介された。ピンク・ベティーか。まそれもよしか。ほろ苦いビールを飲みながら、彼らの演奏と、ピンク・ベティーの歌を聴いていました。

 

(疲れからか、誤字脱字が多くて、訂正しました。御寛恕のほど、宜しくお願いいたします。)

 


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中学時代、数学のI先生との出会いがあり、数学開眼する?

2011-07-23 | 日記

中学時代、二年生、三年生の数学1と数学2をそれぞれI先生に習った。(通常は数学1と数学2は二人の先生が教える。数学1が代数、数学2が幾何だった。)一見こわそうな風貌のI先生でしたが、授業はとても分かりやすく、何を質問しても、的確な答えがすぐに得られ、先生の博識に驚いていました。あるとき、「先生、いろんなことを良くご存知ですが、どこの大学のご卒業でいらっしゃいますか?」と質問したところ、「東京帝国大学工学部です。いろいろあって、戦後しばらく公職追放されていたんですが、現校長のN先生がうちの学校に来て数学を教えてくれないかと依頼され、こうして君達を教えているんだ。」先生は太平洋戦争時、陸軍に所属し、中国戦線で活動しておられた。その当時の軍事行動が戦犯として取りざたされ、しばらく公職を追放されていた。復職ままならず、故郷に帰り実家のお手伝いをされていた。当時の私は、その先生にとてもあこがれていた。代数、幾何の問題集で解法が分からぬものがあると先生によく質問していた。その質問にたいして先生はいつも丁寧に対応してくださり、わかり易く教えていただきました。「思い切って、先の先まで勉強してみると、自分の立ち位置が客観的に良くわかることがある。基礎も大事だが、どこが基礎で、何が大切かが自分で認識できるようになることが大切だよ。」とさりげなく、激励されることが多かった。以来、数学はとても好きな科目となった。特に、幾何の証明を習ったあたりから、数学が面白くなったように記憶する。後年、自分自身が教壇に立つようになっても、私は常にI先生を意識している。「先生ならこうやって教えてくださるだろうな。」と思いながら、授業をしている。

そのI先生、テスト返却のときに一つ癖があった。返却時首をすこし傾けると「あ、どこかでミスったな。満点でないな。」手にするとやはり一箇所ミスがあり98点とかであった。ただ普通に返却してくださるときは、「ノーミス。満点だ。」

少しいイヤミに聞こえますか?

こうして、数学に関して、優れた指導者に恵まれたおかげで、以後満点を定期試験、実力試験、模擬試験を連発することとなった。

中学時代満点がとれなかったのは2回だけ(?)だったと記憶する。なぜならI先生の首は2回しか傾かなかった。

やっぱりイヤミに聞こえますね。

 

わかり易く授業をすすめ、皆さんが満点をとることを常に願っています。

頑張ってください。

 


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