日本のインターネットの父と呼ばれるのは、慶應義塾大学湘南藤沢、環境情報学部、村井 純教授のことである。
村井教授の父君、村井 実氏は同じく慶應義塾大学文学部教授で、教育学の大家である。
純氏が小学生のころは父君の勤務(ハーバード大学)のため、家族でボストンに在住していた。当然、英語は堪能である。本人によれば、ガキの英語で、もう一度リファインする必要があると、学部時代、英語学習のし直しをしていた。
学部から大学院に進学したころ、イリノイ大学からUNIXを携えて、斉藤信夫教授が慶応義塾理工学部に赴任された。それまでの指導教官は中西先生であったか、斎藤先生へと指導教官の変更を行った。後年、純氏はUNIXの大家として「プロフェッショナルUNIX」をアスキー出版から出版し、UNIXの普及に少なからず貢献した。
もともと慶應義塾の数理工学科ではDEC社のPDP11を研究用に導入していた。OSのBLISSはUNIXライクなオペレーティングシステムであり、今流行のLINUXのご先祖さまといったところである。
話は、横道にそれるが、C言語も、ケン・トンプソン氏がPDP9用に『スペースゲーム』を移植したいがために生んだ言語である。
このPDP9は、かのマイクロソフトのビル・ゲーツ氏が高校時代アルバイトをしたときに使ったミニ・コンピュータででもある。
話を元に戻そう。
その村井氏が中心となって慶應義塾大学工学部矢上キャンパス構内にコンピュータネットワークを張り巡らし、次いで東工大、東大大型計算センターを通信でつなぐ相互接続実験を開始した。(1980,81年頃)
これが今に繋がるインターネットのご先祖様であることを知る人は少ない。相互接続の希望が各大学、研究所で増え始め、しばらくはJUNET(Japan Univercity NETwork)として、緩やかにネットワークは増加した。ジュンネット、あるいはジュネットといわれたこのネットワーク。見事に自分(純、Jun)の名前を入れているのはさすがです。
その後のWIDEプロジェクトを経て、めでたくインターネットが一般に公開されたのが1995年でした。
そういった意味で、「インターネットの父」といわれても、何ら不思議ではありません。
岩波新書から「インターネット」と「インターネットⅡ」(村井純)が出版されていますので、興味、関心のあるかたは、一度是非お読みください。
学部時代、そんな、彼が東大の駒場祭に特別出演するという。「機材運びを手伝ってくれないか。手伝ってくれたら、御礼にピンクレディーに合わせてやろう。」と言う。私と現在K大付属の数学教師のM君が協力することとなった。朝6時に日吉キャンパスに車を乗り入れ、約2トンの機材を載せて、いざ東大駒場へ。指定された教室に機材を運びいれ、セッティングのお手伝い。終わると缶ビールを4本くれて、演奏準備に入った。
出演するグループのリードボーカル兼リードギター奏者が村井 純君でした。
グループ名は「小田急沿線ブルース愛好会」というもので、LPレコードも当時すでに5枚発売していました。
(LPレコードは、いまではCDと言ったほうが分かりやすい。)
なかなかのハードロックグループで、歌も演奏もプロ顔負けであった。
ピンクレディーにあわせる約束を確認すると、「こちらが、我々の前座で歌ってくれる、ピンク・ベティーの皆さんです。」と女性2名のグループを紹介された。ピンク・ベティーか。まそれもよしか。ほろ苦いビールを飲みながら、彼らの演奏と、ピンク・ベティーの歌を聴いていました。
(疲れからか、誤字脱字が多くて、訂正しました。御寛恕のほど、宜しくお願いいたします。)