令和6年3月2日(土)
長野市: 往 生 寺
正治元年(1199)
正治元年(1199)
創建の伝承を持つ。
<本殿>
九州博多の城主、
刈(かる)萱(かや)加藤左衛門
尉重氏が出家して
等阿法師と名のり、
妻子から離れて高野山に隠棲し、
修行。
そこへ子の石堂丸が来て
弟子入りを迫る。
やむなく許可。
しかし、親子の情愛にひかれて
修行の疎かになることを怖れ、
善光寺に参篭。
如来よりこの地を授かり、
83歳で寂す。
<刈萱一枚法語碑>
生前、彫刻して遺した地蔵尊を、
子の石堂丸も、
それを手本として同じものを刻む。
これら二体の仏像を
「刈萱親子地蔵尊」と呼ぶ。
当山は
父の刈萱上人の終焉の地。
それで刈萱堂往生寺とよぶことに。
境内には
境内には
善行寺如来が来迎して刈萱を招いた
という来迎松と、
刈萱の墓、
苅萱親子地蔵がある。
<句碑>
また地元出身の草川信が作曲した
唱歌「夕焼小焼」
のモデルとなった鐘と、
その歌碑がある。
<夕焼小焼の歌>
<一茶の歌碑>
一茶の歌碑には、
「かるかや堂
花の世ハ 仏の身にも
親子哉
善光寺御堂
蝶とぶや
善光寺御堂
蝶とぶや
しんらん松も
知った顔
咲くや 伊達に
くはえし 殻ぎせる」
一茶の真蹟を拡大した碑。