貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

小凡の証?一心に念ずることの難しさ・・・

2022-08-26 09:20:36 | 日記
令和4年8月26日(金)
第29番 南国市: 国 分 寺   

 「諸国で最も良い土地を選んで建てよ。」
という四五代聖武天皇の勅願により、
天平十三年(741)に行基菩薩が創建した寺。

 天皇自らが金光明最勝王経を書写して納め、
天下太平、
五穀豊穣、
万民豊楽
を願う祈願所とし、
怨光明四天王護国乃寺の勅額を授けられた。

 弘仁六年(815)に、
弘法大師が毘沙門天像を彫像して、
奥の院に安置。
 その際に、本堂で、
真言八祖相承「星供の秘法」を勤修して
四国霊場に定めた。
 寺から1㎞離れた場所に、
『土佐日記』の
紀貫之の邸跡がある。
 貫之は、延長八年(930)
国司として土佐国に赴任。
 国府には四年間滞在し、
土佐の政治・文化の中心となった。
 歴代天皇からの信仰が篤く、
長宗我部氏や土佐藩主山内氏からも
寺領が与えられ、
代々伽藍の維持が図られた。
 明暦元年(1655)、
土佐二代藩主山内忠義公が
寄贈した豪壮な仁王門を入ると、
杉木立に挟まれた石畳が本堂まで続く。

 杉苔が美しい庭園で、
創建当時の塔心礎を主石として
整備されているという。

 大正十一年(1922)には、
境内地全域が国の文化財指定を受けた。 
 正面に建つ本尊の千手観音菩薩を
祀った本堂は、
永禄元年(1558)に
長宗我部国親・元親親子により
再建された。

 椹(さわら)を使った柿葺きの天平様式を
思わせる単層寄棟造が特徴的な建物だ。
 内部の海老紅梁は、
土佐で最も古いとされており、
室町時代の作風が見られ、
国の重要文化財の指定を受けた。

 若いご夫婦がお経を高らかに朗詠され、
多少迷いも生じたが、集中し一心に念じた。
小凡の証かな?




万遊者記とは?

2022-08-25 11:26:57 | 日記
令和4年8月25日(木)
安積町: 天 性 寺              
 もの凄く広い駐車場。

 何処もよく整備されている。    
 昨日訪れた大慈寺と縁があるという。
 やはり、お導きかな?

 若い副住職さんもいいなあ。                                      
 その方が草木に水まきをされている。
 笹川の暴れ地蔵堂を参拝していると、
気さくに、「開けましょう。」と声をかけ、
「暴れ地蔵」の小冊子を下さる。

「その昔、地区を流れる阿武隈川が
洪水になった時、川上から数多くの木が
流れてきた。
 一人の百姓がその木を持ち帰り、
薪割りの台に使っていたところ、
いつの間にかその木が神棚に上がっている。
 よく見ると、かすかながら目と鼻が
刻まれている。
 庄屋さまに見てもらったところ、
お地蔵様に間違いないというので、
これをお寺に納めたところ、
村で流行っていた病気が収まり、
お地蔵様が信仰の対象となる。」
という話。

 いつの頃からか、このお地蔵様を
村中に引き回す風習が生まれ、
お地蔵様も子どもたちと暴れるのを
喜んでいるよう。   
 やがて親しみを込め、
「あばれ地蔵」
と呼ばれるようになる。

 今年も11月2日に子どもたち6名で、
家内安全、交通安全を祈願して、
地蔵の周り打ちをする。
 その後、一軒一軒廻るそうだ。
「そう言えば、先日NHKで、
暴れ地蔵と子どもたちのことを観ました。
こちらのことだったんですね。」
とお話すると、
「よかったら、11月2日にいらっして
ください。」
とお誘いを受ける。
 芭蕉句碑のことをお話すると、
「住職に聞いてきます。」
と社務所の方へ行かれた。
「読経が始まるので‥・。」
ということで、
住職さんとは渡り廊下の窓越しで挨拶。

 その後、副住職さんが、
郡山版の「碑散策」の記事のコピーを
持って来て、句碑まで丁重に案内して下さる。

 芭蕉の句は、
「万遊者記(まゆはき)を 
  俤(おもかげ)にして 
      紅粉の花」 。  
 尾花沢から立石寺への途中の作。                        ※化粧に縁のある眉掃きを思わせる、
よく似た恰好に紅の花が咲いているよ、
という意。 

 この寺にも、健康十訓の碑がある。
健康志向の強い現代の為せる技?



浄財の還元、寺内奥様の慈愛奉仕か!深謝!!!

2022-08-24 11:37:36 | 日記
令和4年8月24日(水)
第28番 香南市: 大 日 寺 

 聖武天皇の勅願により
行基菩薩が本尊の大日如来を刻み、
開基した。

 尊像は、四尺八寸二分(約1.46㍍)、
中四国地方では最大級の仏像。
 脇仏は、
智証大師作の聖観音立像で、
共に国の重要文化財に指定。
 その後、間もなく荒廃したが、
弘仁六年(815)、
弘法大師によって再興された。
         
 慶長年間からは、土佐藩の祈願所となり、
長宗我部元親氏、
藩政時代には山内忠義公の尊崇を受け、
土佐藩の祈願所として七堂伽藍が立ち並び、
壮観を極めた。

 明治四年(1871)の廃仏毀釈の難に遭い、
廃寺となるが、
地元の人たちは本堂を大日堂として守り続け、
明治十七年(1884)に再興した。

 石段の途中に山門があり、
南無大師遍昭金剛と書かれた赤い幟が
両端に立ち並ぶ。

 境内正面にある本堂から少し離れた場所にある
奥の院には、
弘法大師が爪で彫ったとされる
薬師如来・爪彫薬師の霊木がある。
 大師が彫った楠は、
明治時代に倒れてしまったため、
その木を安置したもの。

 これは、目、鼻、口、耳など首から
上の病気にご利益があると伝えられている。
 このご利益を受けて病気が平癒した人は、
穴の空いた石を奉納するのが習わしだそう。
 紅白の花を咲かせている百合が
納教所前に飾られ、
花の種の接待もしてくれた。

 また、浄財として、
五百円分五円玉に換金してくださり、
後々浄罪に困ることはなくなった。
ありがたや!
深謝!!深謝!!!


金神峰とは?(こうのみね)

2022-08-23 13:54:14 | 日記
令和4年8月23日(火)
第27番 安芸郡:
 金神峯(こうのみね)寺  
                    
 神功皇后が三韓征伐の戦勝を
祈願することを目的に、
天照大神を主祭神とし、
その他の諸神を
この地に祀ったのが起源と言われる。

 その後、行基菩薩が
十一面観音像を刻んで本尊とし、
神仏を合祀した。

 大同四年(809)には、
弘法大師が平城天皇の勅命によ来錫、
諸堂を整え、四国第二十七番目の霊場
に定めた。

 明治時代の神仏分離令で、
天照大神と大山祇神社を祀る
神峰神社だけが残り、
本尊の十一面観音は、
金剛頂寺へ遷座されて廃寺となる。
 しかし、十三年後の明治十七年(1884)に、
元僧坊跡に御堂を再建氏、
本尊を金剛頂寺より移した。

 真っ縦と呼ばれる急勾配の神峯山
山頂付近に位置する神峯寺は、
三菱財閥創始者の岩崎弥太郎の母親が、
息子の開運を祈願。
 安芸市にある自宅から
往復四十㎞の道を歩いて、
二十一日間日参したという。
 寺内の景観の美しさでは、
四国霊場でも有数と云われる神峯寺。

 
 急坂で疲れた遍路の喉を潤してくれるのは、
鐘楼の裏手に湧く神峰の水。
 この水は病気平癒に霊験あらたかといういう
言い伝えがあり、
私もペットボトルに入れ、
いただくことにする。


休むるが休まらず!でも・・・・・!!!

2022-08-22 10:39:39 | 日記
令和4年8月22日(月)
郡山市湖南町: 麓山神社  
    
 猪苗代湖見たさに麓山神社へ。  
 1時間以上のドライブとなる。
 碌山神社の立派な石碑もあり、
階段状の鳥居を潜れば社殿が…!?と、
手ぶらで登る。

 あにはからんや、何にもない。
 麓と銘打っているから、
少し登れば平地がある?
と勝手に思い描いたのが間違いの源。

 杉っ葉がいっぱい落ちていたり、
小さな花が咲いていたり、

藤の花が垂れ下がっていたり、

今少し、今少しと登っているうちに、
こりゃ、頂上にあるんだと、
登山準備を怠った自分を反省。

 結局、曲がりくねる急坂を、
運動靴で1時間以上の登った所で
Uターン。

 木々の間から見える猪苗代湖を
折々に堪能。



 芭蕉の句碑があれば、
「雲折り々 
  人をやすむる 
     月見哉」
の句。
 初めての句碑だったのに、残念。
 ※ 折々雲がかかって、
月光を遮り、
一心に見入っている自分を
ほっとさせることだわな、
の意。