今日は、先週の金曜日、公開初日で鑑賞した『ザ・ウォッチャーズ』の感想を。
ナイト・シャマラン製作、娘のイシャナ・ナイト・シャマランが監督のホラー映画です。
主人公を演じるのは、ダコタ・ファニングちゃん。
子役のイメージが強かったので、大人になっていらっしゃって、なんだか感慨深かったです。
地図に載っていない不気味な森に迷い込み、遭難してしまった主人公・ミナが辿り着いた謎の施設。
そこには同様に森で迷ってしまった男女3人が、森に住む「何か」に殺されないためのルールに従って暮らしており、ミナも彼らの仲間入りに。
謎の施設の壁はマジックミラーになっていて、夜になると森に住む「何か」が彼らを覗き見しに訪れます。森のモンスターに殺されないためには、彼らに監視され続けなければならない…というストーリー。
地図に載ってない森、続出する行方不明者、森に住むモンスター、クローズドなコミュニティ、生き延びるためのルール。
いかにもホラー!というお約束設定盛りだくさんですが、こういう「定番」は好きです。
でも、ホラーでありつつ、結末まで知ってみると根底にはファンタジーな設定や要素を感じるストーリーでありました。
このお話の核となる、覗く者と覗かれる者の対比。
映画冒頭で登場していたガラスケースに入った爬虫類と、主人公達が森で暮らしていた施設が重って見えますよね。
また、主人公が連れていたカゴに入った鳥も。
人間は、他の生き物をペットとしてケースやカゴに入れたり、また動物園では檻に入れたりし「鑑賞」(←敢えてこの言葉を使います)する側の生き物です。
けれども、あの森の中では、主人公達人間がガラスケースに入れられ、森に住む「何か」に鑑賞される側。
逆らうという選択肢も無い。
つまり主人公達は、ケースの中のペットや動物園の檻の中の動物と同じ。
それは、他の生物を支配している人間の無自覚な傲慢さを皮肉っているように見えます。
森に住む「何か」の正体もまた、人間の歴史において地下に追いやられてしまった存在でしたし、私達自身が意識していない人間の罪深さ、罪の歴史を見せられたような気がしました。
そして、「鏡」という存在。
予告編でも流れていた、施設のマジックミラーに向き合う主人公の姿が印象的でしたが、それは鏡に対して、私が普段から抱いている気味悪さや不安感を益々掻き立てられる描写でした。
鏡の向こうに何か自分の知らない世界がある…みたいな。
モンスターではなく鏡自体に感じる気味悪さ。
それが静かな怖さを増幅させるシーンでもあったと思います。
が、全体的に見ると、ホラー映画としては、そこまで怖いというほどではなかったかな。
終始、不気味で不安定な気持ちにさせられるだけというか。
主人公ミナは、幼い時に、自分が原因で母親を死なせてしまったというトラウマのせいで、自分の心と向き合うことなく、色々なことに目を背けて生きていました。
そんな彼女の、森で遭難してからの生命力・生命欲の強さが少し意外な感じがしたのは私だけかな?
意外とポジティブで臨機応変でチャレンジャー。
彼女の変化は、「何者かに覗かれ続ける」ことが自分で自分の心を覗く(向き合う)キッカケになったのかな?とか、死と隣り合わせの極限状態での変化かな?とか、色々考えてしまいました。
このお話は、ホラーでありつつ、ミナが過去を乗り越える成長の話。
その心情の変化の過程が少しふんわりとしていた感は否めませんでしたが、
「もし自分が森で行方不明になったら、どう見ても自殺したようにしか思われないから、そうなったら妹に益々トラウマ負わせることになる。だから自分は絶対ここでは死ねない」
という感情が、極限状態の生活での支えでもあったのかな…と。
森に入る前の妹との電話からも、このままではいけない、向きあわないとという葛藤は窺ていましたし。
また施設の鏡に顔を寄せるシーンでは、鏡の中に双子の妹を想っていたのかなと想像。
そういえば、施設のテレビで、やたらとリアリティショーが流れていたのもまた印象的です。
人の生活を覗くエンタメ。
「覗く」、「覗かれる」、なんだか、自分と他人の境界線が段々分からなくなって来そうな気持ち悪さも感じましたね。
ミナは、よく正気を保っていられたなぁ…。
シャマランがプロデューサーということで、『ヴィレッジ』のような最後の最後で世界がひっくり返るどんでん返しを期待していたものの、意外と普通にエンディングを迎え、少し物足りなさが。
でも原作が小説ということなので、原作に忠実だったのかな?
原作小説も読んでみたくなりました。
この作品、私は、あまり怖くなくライトなファンタジーホラーとして楽しめました。