懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

茅葺民家  道

2011年10月21日 | 茅葺き民家
茅葺民家  道


撮影した写真のなかから茅葺民家につながる道が土の道を集めてみました。
どの道も曲線的です。現在の宅地造成された道では考えられないようなカープをしています。
人が長いあいだ歩いてできたのでしょうか。
長い時間を掛けて出来た道に人の日々の営みを感じ懐かしくおもえます。
土の道がまた温かさを感じます。
こんな道に懐かしさを感じるのは子供の頃の遠い記憶でしようか
私の子供の頃はほとんどの道が土の道でした。
土の道は雨の日雪の日は歩きづらい道です。
こんな土の曲がった道と民家に出会うためにまた旅にでます。

撮影場所は岩手、兵庫、島根、岩手、山形、山形 、山口です。

古い町並み 着物姿

2011年10月20日 | 古い町並み
古い町並み 着物姿


倉敷のナマコ壁の民家の横を歩く人を一時間座って撮影した。
撮影した時はこんな写真を撮影してどんな意味があるのかと思った。
強い目的意識をもって撮影したわけでもない。ただ漠然と撮影したように思う。
だいたいこの写真を撮影した目的も曖昧だがどう生かそうと考えたかも曖昧である。
人生自体に強い目的を持って生きていたわけでもない。
時の流れるように生きてきた。
写真を撮るにしても将来きっと役に立つこともあると自分に言い聞かせないと継続は難しい。
アドバイスや指導をしてくれる人を探すのが上手な人生の生き方でるがそれも煩わしくてしなかった。

年齢を重ねて民俗学の書物を読んでいたら民俗学者の今和次郎氏の書物に街角を行きかう人々の服装や仕草をスケッチした画がでてくる。氏は青森県出身で東京美術学校で絵画を習得している。
大正時代から昭和にかけて街角に立ちこんな事をやっているのには敬服した。庶民の生活を刻銘に記録した民俗学は日本の文化でもある。
今和次郎氏は昭和2年から考現学というのを始めている。
場所や時間を定め組織的に世相や風俗を調査研究し解析分析する手法だそえだ。
これが赤瀬川氏などの路上観察学につながっているといわれている。
わたしもこの歳になり若い頃に民俗学に興味をもっていたら物の見たかや考え方に深みがでてきたと思う。

昭和40年代は着物姿の女性がまだ沢山いた。母の初詣の写真をみたら着物姿であった。
まだ正装は着物の時代である。
着物が衰退したのは乗用車の普及であろう。女性も運転するようになり都合が悪くなった。
現在スカートさえ履く人が少なくなった。駅で列車を待つ間、通行する人を数えたらスカート35人にスラックス、ジーパンが112人であった。
スカート姿さえ珍しくなっている。

お婆さんが子供を背負う姿もすくなくなった。若いお母さんは前に抱く時代である。
祖母が孫の世話をしなくなった。核家族と嫁姑の関わりを持たない生活が定着した。
動物は子供を産まなくなると死ぬのだそうだ、一生の八割、九割は子を産むのだそうだ。人間はと言うと子供を産む期間より産まない期間の方が長い人が多い。100歳まで生きる人が多くなり四割しか生む期間がない人もいる。孫の世話をせず自分の人生を楽しむスタイルが定着したのも時代の流れであろう。それが孫にとっていいのかどうかは何とも言えない。


蒸気機関車 C6223

2011年10月18日 | 蒸気機関車
C62型蒸気機関車

広島県糸崎機関区にて撮影、
かって東海道線や山陽線、東北、常磐線で特急や急行を牽引していたC62型蒸気機関車
戦後の旅客増加に対応してD52蒸気機関車の缶を使って改造された。
戦後はGHQの監査が厳しく新規の機関車の開発が厳しく改造で対応したと書いてある。

鉄道ファンにとっては憧れの蒸気機関車でもある。呉線で運行されていた機関車だが昭和45年9月に電化により役目を終える。
全部でC62型蒸気機関車は44機製造された。
普通の人が見れば何の変哲もない写真だが好きな者にとってはたまらない顔である。





茅葺民家  空の暮らし

2011年10月17日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県旧旭町
旭町や中央町は典型的な中山間地域である。
中山間地域でも頂上に近い地域は「空」と呼ばれている。空に近い事もあろう。
広辞苑で調べると空という言葉には大空以外に遠くの方、天井や屋根の上と言う意味もあるそうだ。
昔、親や祖父も遠い山間地を空に住むと言っていた。
岡山県でも山の頂上付近を地元の人は空と言っている。
別に野呂という。広島県には野呂山がある。岡山県にも野呂の付く地名は何か所かある。
元防衛庁長官に野呂田さんがいた。箱根駅伝から実業団で活躍した野呂選手がいる。

空の暮らしは厳しいものがある。耕作地が少なく水にも恵まれない。天水が頼みである。
棚田と段々畑の暮らしである。家も斜面に石垣を積みたてられている。
将来道路や耕作地が増える見込みもなく、集落の維持が難しくなっている。
棚田には町から配布された杉を植えている。
こんな暮らしを記録するのもアマチュアの役目かと思い撮影した。











古い町並み  由加山あんころ餅屋

2011年10月07日 | 古い町並み
由加大権現は倉敷市児島の山中にある。
江戸時代には岡山から四国に渡るには下津井から船にのり金毘羅参詣に行ったそうだ。
この道は金毘羅往来と呼ばれていた。由加山はその途中にあり金毘羅さんと由加山の両参りで栄えたそうだ。しかし、宇野線と宇高航路による四国への連絡で由加山に立ち寄る人はすくなくなった。
下津井の連絡線は茶屋町と下津井に下津井電鉄を敷設し対抗したがモータリゼーションで客が減り下津井電鉄は廃線となる。下津井電鉄が出来ても由加山は離れていたので参拝客は増えなかった。
しかし、皮肉なもので自動車の時代になり参拝客は増えた。
時代から取り残されたために門前町が残されていた。
その中に由加山名物のあんころ餅屋がある。お寺の売店などでは児島の菓子屋のあんころ餅を売っているが参拝者はこの店のあんころ餅を買う。売切れたら店を閉めるので午前中に買い求めておく。
撮影したころは茅葺の店であった。男性が買いにきている、腰にタオルをぶら下げた光景はみなくなった。やまの中に参道に沿いひっそりと集落が立ち並ぶ。

現在、由加大権現は神社と寺院側が係争中で仲が悪い。

そもそも「権現」とは仏さまが仮に神様の姿をとって現れたもので、元の仏さまのことを「本地仏」といいいます。
由加大権現の場合、神様としての名が「由加大神」で、本地仏は「阿弥陀如来」と「薬師如来」のようです。

資料によりますと係争の経緯は下記の通り
明治6(1873)年に神仏分離令により由加神社が分離、
平成元(1989)年、すべての財産を金蓮寺(瑜伽大権現)のものとする覚書がなされたものの、
平成9(1997)年、神社側を名乗る者が大殿を占拠したため、金蓮寺が明け渡しを求め提訴、
平成17(2005)年、広島高裁岡山支部において基本的に金蓮寺側の大殿の使用を認める判決が下されたようです。
なんともありがたみのない神様仏様です。






蒸気機関車 井倉峡

2011年10月06日 | 茅葺き民家
蒸気機関車 井倉峡


伯備線井倉駅から方谷駅のあいだは井倉峡と呼ばれている。
石灰岩が浸食されて渓谷となっている。
岡山県の西北部から広島県にかけては石灰岩におおわれている。
井倉や足立、石蟹には石灰の採掘場がある。蒸気機関車かせ走っていた頃にはセメント工場もあった。時代が進み、そのセメント工場も閉鎖された。セメント工場と蒸気機関車を一緒に撮影しておけば歴史が語れるのだが、私ははそんな考えは思いつかなかった。
石灰を運搬のため蒸気機関車の重連で運行された。

撮影した場所は鍾乳洞の井倉洞の入り口です。
私はここの風景が気に入り何度も足を運んだ。
ここで撮影していて鉄道ファンには会った事はなかった。自分で独り占めできる風景だった。

井倉周辺にはいくつも鉄橋があり場所を変えて楽しんだ。
しかし、今のように車があるわけでなくひたすら歩いた。

この鉄橋は現在国道180号線道路が間に建設され以前のようには撮れなくなった。
蒸気機関車の煙の色で季節がわかる。白煙は10℃以下の冬場、灰色は20℃以下、夏場は定速走行中には煙は見えない。夏場は絵にならない。

茅葺民家  棕櫚の木

2011年10月05日 | 茅葺き民家
棕櫚のある風景を入れて見ました。なんとも田舎の風景ですきです。
昔は棕櫚は道端に植えてありました。
繊維状の皮を剥いでロープを編んでいました。繊維をほぐしてロープや蓑にするために植えていたと思われます。亀の子タワシも棕櫚の繊維が原料です。
並べて植えてあるところでは柱代わりにして竹を縛り付けて大根や藁を干していました。葉は軸ごと切って蝿叩きにしていました。干した葉を糸で編んだ蝿叩きは売っていました。
白い実がなると木に登り取にいくのです。取ったところで何に使うわけでもないのですが木に登り取る行為が楽しかったのです。カラスが巣をして産卵すると人に威嚇をしてきます。
大人から小学高学年にカラスの巣落としの依頼がきます。
買い物かごを頭に被りカラスの卵を捕りにいくのです。カラスから攻撃を受けても巣から卵を奪う事が男の子の自慢でした。

棕櫚はうちの庭にも会社の砂利のところからも自然に生えてきます。鳥が実を食べるのでしょうね。、私は何でも一度は口に入れてみたがるのですが棕櫚の実は噛んだ事がありません。

撮影は広島県、兵庫県、静岡県です。








古い町並み 煙草屋

2011年10月04日 | 古い町並み
煙草屋のある風景
昔は街角に煙草屋があった。おばあさんが店番をしていたイメージが強い。それが全く見かけなくなった。昔ながらの家で琺瑯引きの看板と出窓のある店屋の煙草屋は重要文化財クラスだと思う。煙草屋も昭和の風景のひとつであった。
消えた背景には禁煙活動による喫煙者の減少、自動販売機、コンビニでの販売、小売店の廃業による。
いつの頃から煙草屋が姿を消したのであろう。マスコミに報道されたり消えるのを惜しむ声があがらない限り静かに消えていく。
マスコミに取り上げられる物には関心があるが、それ以外は何の関心も持たれないのが情報化社会でもある。

昔、煙草屋の娘という唄があった。昭和12年

煙草屋の娘
(男)
向う横丁のタバコ屋の 可愛い看板娘
年は十八 番茶も出花 いとしじゃないか
いつもタバコを買いにゆきゃ やさしい笑顔
だから 毎朝毎晩 タバコを買いに行く

(女)
この頃毎朝毎晩 タバコを買ってくあの人は
なあんてタバコを のむんでしょ あきれた人ね
おまけにタバコを渡す時 変な目つき
それでもお店にゃ大事なお客 毎度ありがとう

これがタンタン狸の○玉の替え歌となる。煙草屋の娘の曲は歌わなかったかがタンタン狸の歌はよく歌った。

撮影 倉敷市玉島仲買町



蒸気機関車 犬のいる風景

2011年10月02日 | 蒸気機関車
写真は福岡県行橋機関区の野良犬です。
広い機関区に捨てられそのまま居着たのでしょうか。
機関区で働いている人から食べ物をもらい生き延びたのでしょう。
写っている蒸気機関車は9600型(愛称キューロク)とC11蒸気機関車
蒸気機関車は田川線に運行されていた。貨物列車は9600型が牽引、客車はC11型が牽引していた。
国鉄田川線は現在は平成筑豊鉄道が運行している。

写真を撮影していると犬に出会う事がある。
それがアクセントになることがある。放し飼いの犬の方が自然でよい。
猫はすばしっこいし隠れるので私には撮影しにくい。

人間も犬との付き合いも長く犬にかかわることわざも多いいくつか挙げてみる。
1.犬も歩けば棒にあたる。
2.犬が西向きゃ尾は東
3.犬猿の仲
4.犬に論語
5.犬の遠吠え
6.犬も食わぬ
7.犬の川端歩き
8.犬の糞で敵を討つ

犬の付く言葉もある。犬走り、犬返し、犬くぐりなど建造物にも犬の付く言葉が残っている。
犬走りは築地塀と側溝の間の犬か猫しか通れない通路を指す、軒下の通路を指す事もある。工場だとタンクの周りの通路を犬走りと読んでいるが若い人には犬走りは死語に近い。犬走りとは言わず英語でダイクと呼ぶ事が多い。

犬が付くとロクでもない、劣るものの代名詞になっている言葉も多い。
犬死、犬侍、犬またぎ、植物だと犬タデ、犬山椒、犬萩、鳥ではイヌワシなど
朝鮮鰆のように差別用語として犬が使われている。

四文字熟語に羊頭狗肉がある。羊の頭を掲げて犬の肉を売る。詐欺行為にこの言葉はつかわれる。
この狗肉(犬の肉)を食ベル習慣は中国、韓国、北朝鮮では今でも残っている。
韓国はワールドサッカー開催の時に犬の肉を食べるのはやめようと欧米から圧力が掛ったが今も健在で毎年200万頭の犬が食べられている。

韓国や中国は「足のあるものは椅子以外何でも食べる」と比喩される食文化がある。
日本は仏教の伝来とともに殺生を禁じたので食肉の習慣は少なかったが、それでも犬は食用にされ犬が見当たらなくなった時期もあったようだ。

江戸時代までは犬は放し飼いであったそうだ、明治維新後、欧米人が日本へ訪れるようになったため犬はつないで飼うように法律で定められた。明治六年のことだそうだ。江戸時代は放し飼いであったため犬の数は増え続けたと思われる。
そのバランスをとるためには食用にするか生まれた子犬は直ちに処分されたものと思われる。食料の乏しかった時代は人の赤子も間引きが行われていたので犬、猫に至っては当然のように処分されていたと思う。