ヤマアカガエルの産卵に春を知る日

山里の日々の生活と自然、そして稼業の木工の話

箸作り 続き

2013年04月29日 | 木工
椅子がたくさん出来上がりました。
10脚ほどまとめて納品に行きました。








さて、しばらく前に加工して途中で止まっていた箸の制作を再開。
ラジオでGWの渋滞情報を聞きながらの作業。





仕上げに使うのはユニバーサルサンダーという機械。
帯状になった研磨紙がぐるぐる回っていて、
それに加工物を押し付けて磨く機械です。

この機械を作っていた長谷川という機械屋は倒産したらしい。
木工屋仲間ウチではとても定評のある機械なのですが、
そんな機械を作っていた会社もなくなってしまうとはと、この国のもの作りの行く末を案じます、、、



小さいものを指で持ってする加工は神経を使います。
研磨紙に触ると指がすり減ります。
大きく削ってしまうと皮膚がなくなってあと治るのが大変、気を付けよう。





左が加工したもの、右が加工前のもの。


これを約140膳、280本。
正直飽きてしまう、肩も凝る。

うんざりしたら散歩する。





日陰でまだ桜の花が残っていた。
今年の春は寒い。





胡桃の林越しに見た私の工房。






裏山。
山の尾根の稜線になぜか大きな溝があって、この溝はずっと山頂まで続いています。
不思議な地形です。
どうしてこのような地形になるのかが理解できない。



歩いていたら近所の人たちと会ってしばらく世間話。




さて、箸は漆を塗ります。



これは1キロの漆が入った桶です。

漆は福井の問屋から買っています。
4月から値上がりするといわれ、2キロ買い貯めすることにしました。
1キロ1万円が1万2千円になるとのこと。
資材だけは値上がりしてゆくこのご時世。




1キロの桶に入った漆をどんぶり二つくらいに分けます。
表面が酸素に触れないようにぴったりとラップで蓋をします。


使う漆は中国製です。
どろりとして溶かしたチョコレートのような感じです。
これを刷毛やヘラで木に刷り込んで、紙でふき取る塗りを「拭き漆」といいます。
この塗りを4、5回繰り返すと艶が出て耐水性、強度も出ます。
漆は天然の塗料としては世界最強間違いなしです。

一回塗ると最低でも一日は乾かさないと次の工程には移れません。
本当は一日とは言わず、なるべく間を空けて塗り重ねた方が良い塗膜になります。
そのため、時間と手間がかかるので漆仕上げは割高になります。

漆が乾くのには適度な温度と湿度がいります。
おおよそ20度、70%以上必要です。
乾燥に湿度がいるなんて、にわかに理解できないかもしれませんが。
最近は漆の仕事が減ったので、冬場は漆を塗らなくなりました。
冬は温度管理が大変ですし、光熱費もかかります。
今頃は温度はOKですが湿度は足りないので、室(むろ)に水を打って加湿します。
機嫌を損ねると乾かなくなるので難しい塗りです。





1回目の塗りは漆を薄めてたっぷり木に吸わせます。
薄めるのにはテレピン油か灯油を使います。
この1回目にしっかりと漆を吸わせることが大事と教わりました。
テレピン油などは最終的には揮発してしまいます。(はず)






漆を吸わせたお箸。
乾くにつれて黒くなっていきます。






並べて室に入れます。






漆の室です。もちろん自分で作ったもの。


中に板を張り、その板に噴霧器で水を打って湿度を上げます。
この室は高さ2m、間口2m、奥行き1.2m、大きめの家具も入るように作りました。





今回の箸はこのまま1週間ほど置き、他の作業をします。





群馬の森クラフトフェア2013

2013年04月23日 | 木工
群馬の森クラフトフェア2013に出展しました。


スタッフのはしくれなので、準備からです。

金曜日が準備日だったのですが、ものすごい大風でした。
会場はその名の通り森の中ですが、樹がわさわさ揺れる揺れる。
木々が開花の時期なので、花びらや花粉が降ってくる。
看板を立てたり、出展するスタッフのテントを張ったりしましたが、
そんな風なので危なくてあまりちゃんと張れない。
烏もまっすぐ飛べないくらいの風でした。


土曜は3時起き!
スタッフは5時に集合して自分たちの荷物を降ろしてから出店者の搬入の誘導をします。





私のブースの前の風景。





初日はペーパーコード張りの実演をしました。

お客さんが面白がって集まってきてくれて見てくれる。
そこで会話が生まれるから張り切る。
一脚仕上げました。

仕事が忙しく、イベントのために作った品物はありませんでした。



土曜日は夜から雨。

テントの中に品物を集約して布団をかけてシートで覆って帰宅。
眠すぎる。





日曜の朝、雨音がしないので、止んだかとホッとして外を見ると、何と雪が降っていた!




4月21日の降雪は山に住んでから最も遅い記録です。

いや参った、スタッドレスタイヤも脱いでしまったし、、、
道路はなんとか大丈夫だった。
また冬の下着やジャンバーを引っ張り出し、会場へ。



でも何とか午後から雨は上がりました。
お客さんも午後からは大勢いらっしゃいました。


4時。イベントは終わり。

出店者の搬出を先に誘導して、スタッフの搬出が終わったのは日の暮れた7時。
森が烏のねぐらなのでカアカアうるさい。


みなさんお疲れ様でした。
おいで頂いた方、ありがとうございました。

独立へ(回顧 その4)

2013年04月22日 | 木工
2年の研修期間を経て、私は独立して自分で仕事を始めることにしました。


独立開業と時を同じくして、学生時代に付き合っていた女性と結婚しました。
彼女は京都で染織の勉強をしていて、2年間の離別生活でした。


家具作りのことを全て習得したつもりはありませんでしたが、
もう後は自分でなんとかするしかないという感じでした。


最初は機械付きの作業場を借りて仕事を始め、
一年後に現在の工房の建物に移ったときに借金をして、基本的な機械設備を揃えました。
最初の借り入れの返済期間は5年間でしたが、
初期の頃は売り上げも少なくて苦労して返済した覚えがあります。
その後も必要に応じて他の機械や工具もこつこつと買い揃えてゆきました。

工房経営のことはほとんど教わらなかったので、暗中模索の出航でした。
帳簿も付けもよくわからず、商工会の指導員さんに教わって覚えました。
図面描き、見積もり、材の買い付け、営業、みな手探りで自分でするしかありません。
特に品物の値段の付け方は難しい課題です。
安ければ経営が成り立たたず、高ければ売れないのは当たり前のことです。
しかし、ことはそれだけではない。
見積もりが安すぎて信用されず、仕事を断られるようなこともありました。
自分の感覚で値段を付けてもいけないことも学びました。

最初の頃の取引先は村内にある森林組合のお店でした。
そのお店に来た注文家具の仕事を頂いて収めていました。
その頃は特に夢中で仕事をしていたので、値段以上の仕事を手間暇をかけてしました。
出来た物が良ければ褒めていただき、また注文を頂きました。
結果的には宣伝費を品物に載せて世に送り出したような形です。

材木の仕入も難しい課題でした。
丸太の見立て、値踏みなどは身銭を切って経験を積むしかありません。
買った丸太を製材したらまるまる使えなかった、なんてこともありました。
木工、特に伝統工芸などは良い材を使って仕事をしてナンボみたいなところがあります。
注文が来てもちょうどよい材が手元になく、苦労してあちこち探し回ったりしたこともあります。
それに懲りて、お金が無くてもやせ我慢をして材を買い込むようになりました。

木は自然のものなので、出会いは一期一会です。
いつでも同じものが手に入るわけではないので、よい出ものがあったら買わないと次はありません。
惚れた丸太を買うために借り入れもしました。
丸太の製材は樹木が板になる瞬間に立ち会うことが出来る素晴らしい経験です。
製材の後、皮をむいたり桟を入れて干す作業は重労働ですが、
材に対しての愛着がまし、仕事の喜びになりました。


最初の頃は頼まれてデパートの催事にもよく出かけました。
部材を加工しておいて、売り場で引き出しなどを組み立てて仕上げるような実演販売です。
主に大阪や神戸などの老舗デパートで、一週間ほどの出張です。
そのような場所でのお客さんや同業者との交流はとても実入りのある経験になりましたが、
人前で接客しながらの作業はかなりのストレスだったようで、
帰ってきてから原因不明の腹痛に襲われたりしました。



何年か経つうちに群馬クラフト作家協会や上野村木工家協会などが設立され、仲間が増えてゆきました。

お客様との出会いも増え、群馬県内はもとより、埼玉や東京に納品に行くようになりました。



何をどう作ればよいかは、結局、お客様が教えてくれました。
私の作風を気に入ってご注文を頂くのですが、
何を作るのか、どう使うのかはお客様がすでにプランを持っていらっしゃいます。
お話をお伺いして、どのような物をお求めなのかをくみ取り、少しばかりの私の意見を混ぜ、
お客様が欲し物を作るのが私の仕事です。

木のことは結局、木が教えてくれました。
不適切な使い方をすると必ずしっぺ返しがあります。
いろんな失敗をしましたが、無垢の木の性質に逆らってはいけないことを木に教わりました。
木は素晴らしい素材です。
美しく、ぬくもりのある、自然からの賜物です。





この世界に入って22年経って今思うこと。

お客様は自分や家族のためにお部屋にこんなものが欲しい、という思いからご注文をくださいます。
私はお客様とご相談して、そんな思いを受け取ってお客様のことを思いながら家具を作ります。
お客様は私の家具がやってくるのを楽しみに待っていてくださいます。

物作りになりたいということだけが最初の動機でしたが、
いつしかそんなお客様とのお付き合いこそが、私の喜びになってゆきました。



そして怖いこと。

木材が枯渇しつつあるということを強く感じます。
このたった20年間でも、良い材が手に入りにくくなってます。かつ値段が上がっています。
それが原因で注文があっても材が無くて仕事が続けられなくなるのではないかと不安です。







今回でこのこっぱずかしい話は終わりです。



あらためて、今までお世話になった方々に御礼申し上げます。ありがとうございました。

これからもよろしくお願いします!







烏鷺の巣(椅子の完成)

2013年04月18日 | 木工
春らしくなって嬉しい。


川でカジカガエルが鳴きだした。

ツバメが来た。

夜はフクロウが鳴く。蝙蝠がひらめく。

クマンバチがブンブン飛んでる。




新緑に交じって山桜が咲き出した。
暖かくなるにしたがって桜の開花も山腹を登ってゆく。
日本の桜はやっぱり山桜だよね。





工房に向かう途中の民家の庭に立っている杉の木にカラスの巣を発見。
(写真右隅)
住民は知っているのだろうか、教えてあげた方がいいのか、、、
先日も違うところでカラスの巣を見つけた。
幼児のいるお宅のすぐ目の前の電柱のてっぺん。
教えてあげたら、さすがにそれは駆除されてしまった。
早くあきらめてもらった方がお互いのためだよ。




自宅の裏山には鷺の巣も発見。
アオサギかな。
写真では分からないけれど、やはり杉のてっぺんにあるようだ。
こちらは害がないだろう。
あまり眺めていると親鳥が警戒するので、あまり見ないようにしよう。
鷺が木のてっぺんに止まっている絵はなかなか面白いです。





椅子7脚の制作にずいぶん時間がかかってしまった。
家庭の用事で何日か休んだことも遅延の理由です。





椅子の座ぐり。
鉋で削って皿状にします。なるべく鉋で仕上げます。
刃物での加工の方が早くてきれいだから。
でも写真の様に刃物の跡が残るので、このあとサンドペーパーで仕上げます。





ペーパーで仕上げるときにも「当て木」をして擦ります。
当て木をしないと滑らかな仕上がりになりません。
もちろん機械でも磨きます。




肘掛けの付くホゾを丸く加工します。
これは手作業になります。





小刀、鑿で丸くします。




出来た丸ホゾ。




完成した椅子の写真です。





ウォールナットの椅子。






黒胡桃と国産クルミの椅子。
型は同じで材が違います。アメリカ産と日本産のクルミ。
工房の庭の黒竹とレンギョウが背景。





国産ミズナラの椅子。
ご夫婦のご注文で、座面の大きさを変えて作っています。
ご婦人用の方が3cmほど奥行きが小さいです。
ソメイヨシノの花ももう終わりです。








次はこれ。
だいぶ前に作りかけていた小椅子8脚。





こんな仕口です。二枚ほぞ。





組み立て。

納期があるので急げ急げ。



でも今週末は群馬の森クラフトフェアに出展します。





木工修業(回顧 その3)

2013年04月15日 | 木工
上野村に住んで木工屋になるための修業の準備が始まりました。



まず、職人仕事を覚えるための最低限の道具を揃えてくるように言われました。
具体的には鉋、鑿、玄能、鋸、電動ドリル、定規などです。
ほとんど貯金のようなものがなかったので、卒論を書きながらアルバイトをしてお金を作りました。
中学生の時に買って大切にしていた楽器も後輩に買ってもらいました。
後輩にもその楽器が必要だろうと思ったことと、それまでの自分と決別する意味もありました。
その楽器を手放したことは、全く違う世界に入ってゆく覚悟の象徴でした。
半端な気持ちでは大成できないだろうという恐れがありました。
最初に買った道具類は金額にして10万円ほどです。

住む場所は研修施設の2階で、ありがたいことに家賃などはなし。
でも風呂もなし、湯沸かし器もなし。電話も遠慮して使いにくい。
生活してゆくための最低限の手当ては頂くことができ、
節約して残ったお金でこつこつと道具を買うようにしました。

援助はしないとした親も、山暮らしでは車だけは必要だろうと、軽のワンボックス車を買ってくれました。
この車には13年間乗りました。
その車に少しだけの家財を積んで引っ越しをして、上野村での生活が始まりました。



研修施設は集落からだいぶ離れた一軒家で、
そこにいるのは先生の職人さんと同世代の漆塗り職人さんと私の3人だけでした。
しかも夜は私一人だけになってします。
修業はまずはとにかく道具の使い方から始まりました。
先生は昭和一桁生まれの方で、中学を出て東京の和家具職人のところに丁稚に出された人です。
多分、まだほとんど機械が無く手道具だけで物を作っていた最後の世代の職人だと思います。
戦後すぐくらいの浅草あたりの職人話など、面白い話をずいぶんお聞きしました。
在りし日の木工作業の様子がわかって参考になりました。
訓練校で変な癖を付けてくるより、私のようなまるきり素人の方が教えやすいと言われました。

鉋などの刃物でどのように木が削れるのかというようなことは、実際に見ないとわからないものです。
そのような作業の手元を見ることが出来たのは本当に幸運でした。
見た目だけでなく、音や感触でも仕事の良し悪しが分かるものだと知りました。
手鉋は特に難しい道具ですが木工作業の要になるもので、
少しはまともに使えるかな、と思えるようになるには2年ほどかかりました。
刃物を研ぐのだけは最初から上手かったと思います。

その先生がよく言ったのは、高い機械などそう買えるのもではないからとにかく手道具を習得しろと。
また、下請けに出せば工賃を払わなければならないのだから、
なんでも自分で出来るようになるべきだ、ということでした。
そこで、そばにいた漆塗りの職人から漆塗りも教わって自分で塗るようになりました。
その後、座面張り、塗装などもみな覚えて自分でするようになりました。

木のこともゼロから学びました。
いろいろな樹種を使って物を作りながら木を覚えていきました。
日本には様々な樹が育ち、それぞれに特有の性質と美しさがあります。
何をどう使うかは長い間の先人の知恵があることを知りました。
木の使い方を間違えれば出来た物に不具合が生じます。
失敗もしながら、木で物を作ることの奥深さを学んでゆきました。
何も知らないで入った世界でしたが、木の魅力にどんどんはまっていきました。

周りの人たちが気をかけてくれて、勉強中にもかかわらず何か作ってくれという話を頂きました。
拙いながらもいろんな物を作る機会に恵まれました。
先生とも相談しながら、自分のアイデアを取り入れて実際に物をを作りながら仕事を覚えてゆきました。

この頃から独立した初期の頃は、休みの日には同じような仕事をしている人を訪ねたり、
良い家具を置いている店、有名な作家の展示会などをよく見に行きました。
その頃にお会いした人達に聞いた話はその後の仕事の道しるべになりました。

インテリアや木工関係の本や雑誌を買いあさって勉強もしました。
なにしろそれまで、建築や美術やインテリア関係のことを学んだことがありませんでした。
まだその頃はインターネットなどもありませんでしたので書籍だけが頼りでした。
たまたま覗いた洋書店で海外の本に出会い、大きく視野が広がりました。
日本に比べて海外、とくにアメリカでは木工の趣味が盛んらしく、出版物が多いのには驚きました。
作品集、雑誌、技法書などが実に多く発行されれいて、随分参考にさせてもらいました。
もちろんAMAZONなどはなく、そんな本は見つけにくく、まだだいぶ高価な時代でした。



山の生活にもだんだん慣れてゆきました。

上野村はコンビニもなく、水田もなく、信号もありませんでした。
信号だけは最近になって小学校の前にできました。
学生時代はにぎやかな男子寮生活だったので、
村に来た最初のころ、夜になってひとりぽつんと取り残されると大変さびしい思いをしました。
人の多くいるところに行って、人の流れをただ眺めたりしたことがあります。
山は夜になるとあたりは真っ暗で、夜中に獣の足音や鳴き声が聞こえておびえました。
山間の夜空に煌々と満月が上ってきたのを仰いで身が震えました。
そのうち消防団や青年団に誘っていただき、付き合いができましたが、
お酒の弱い私にはそれはそれで大変でした。

田舎に住みたくて移り住んだわけではありませんでしたが、
そのうちに、自然の豊かな山の中で暮らすことは無上の喜びになりました。
特に季節の変わり目は素晴らしです。
風景は一日一日変わり、そしてまた一年一年が違った表情を見せてくれます。

山に暮らす人たちは畑仕事を愛し、狩猟や漁労を楽しみ、
人付き合いを大切にし、身の周りのことを上手くこなす人たちです。
町の人よりも大地に足がついた生き方をしています。
それを面白く頼もしいと思いました。




そんなふうに2年がたち、私はいよいよ自分で仕事を始めることにしました。



(つづく)