さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

『塩一トンの読書』  壱

2011-03-20 21:12:24 | ひとこと*古今東西
(写真:世界最大の塩湖の、ボリビアのウユニ塩湖Salar de Uyuni)


          


 「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、

  一トンの塩をいっしょに舐(な)めなければだめなのよ」



       ***********


 ミラノで結婚してまもないころ、これといった深い考えもなく夫と知人の

うわさをしていた私にむかって、姑(しゅうとめ)がいきなりこんなことを

いった。

 とっさに喩(たと)えの意味がわからなくてきょとんとしていた私に、

姑は、自分も若いころ姑から聞いたのだといって、こう説明してくれた。


       ***********

 一トンの塩をいっしょに舐めるっていうのはね、

うれしいことや、かなしいことを、いろいろといっしょに経験する

という意味なのよ。塩なんてたくさん使うものではないから、一トンというのは

たいへんな量でしょう。

 それを舐めつくすには、長い長い時間がかかる。

 まあいってみれば、

気が遠くなるほど長くつきあっても、人間はなかなか理解しつくせないものだって、

そんなことをいうのではないかしら。



             (須賀敦子『塩一トンの読書』から抜粋)




※改行は、読みやすいようにキャベツの独断と偏見で行っています。


<後の記事>
『塩一トンの読書』 弐

              

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『塩一トンの読書』  弐

2011-03-20 21:10:07 | ひとこと*古今東西
(ボリビアのウユニ塩湖。標高約3,700mにある
 南北約100km、東西約250km、面積約12,000km²=新潟県の面積)

            

 …文学で古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩の話を

思い出すことがある。

 この場合、相手は書物で、人間ではないのだから、

「塩をいっしょになめる」というのもちょっとおかしいのだけれど、

すみからすみまで理解しつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典との

つきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。

 読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本には

かくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、

と新鮮なおどろきに出会いつづける。


     **************

 長いことつきあっている人でも、なにかの拍子に、あっと思うようなことがあって

衝撃をうけるように、古典には、目に見えない無数の襞(ひだ)が隠されていて、

読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくることがある。

しかも、一トンの塩とおなじで、

その襞は、相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、
開かれる。

イタリアの作家カルヴィーノは、こんなふうに書いている。



 「古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、

  すっかり知っているつもりになっていながら、

  いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、

  かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ。」



                       (須賀敦子『塩一トンの読書』から抜粋)


                 

<前の記事>
『塩一トンの読書』 壱


<後の記事>
『塩一トンの読書』 参


                 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『塩一トンの読書』 参

2011-03-20 21:08:50 | ひとこと*古今東西
(干上がったボリビアのウユニ塩湖。
 この下には世界の埋蔵量の半分を占めるリチウムがある…という。)


           


 「自分で読んでみる」という、私たちの側からの積極的な行為を、

書物はだまって待っている。


 現代社会に暮らす私たちは、本についての情報に接する機会には

あきれるほどめぐまれていて、だれにも「あの本のことなら知って

いる」と思う本が何冊かあるだろう。

 ところが、ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに

読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、

「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を

濁(にご)しすぎているのではないか。ときには、部分の抜粋だけを

読んで、全体を読んだ気になってしまうこともあって、「本」は、

ないがしろにされたままだ。

 相手を直接知らないことには、恋がはじまらないように、

本はまず、そのもの自体を読まなければ、なにもはじまらない。


            (須賀敦子『塩一トンの読書』から抜粋)



              

<前の記事>
『塩一トンの読書』 弐

<後の記事>
『塩一トンの読書』 四    

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『塩一トンの読書』 四

2011-03-20 21:02:54 | ひとこと*古今東西
(ボリビアのウユニ塩湖。「天空の鏡」と言われる巨大な鏡となることも、ある)


               


  さらに、こんなこともいえるかもしれない。

  私たちは、詩や小説の「すじ」だけを知ろうとして、それが「どんなふうに」

 書かれているかを自分で把握する手間をはぶくことが多すぎないか。

  たとえば漱石の『吾輩は猫である』を、すじだけで語ってしまったら、

 作者がじっさいに力を入れたところを、きれいに無視するのだから、

 ずいぶん貧弱な愉(たの)しみしか味わえないだろう。


  おなじことはどの古典作品についてもいえる。

  読書の愉しみとは、ほかでもない、この「どのように」を

 味わうことにあるのだから。


                   (須賀敦子『塩一トンの読書』から抜粋)


              

<前の記事>
『塩一トンの読書』 参

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

...everlasting

2011-03-20 07:40:45 | Sunday 写真&みことば
 いつまでも残るもの
 …新約聖書のコリント人への手紙第一(Corinthians Ⅰ)13章13節から。


             .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*


          『こういうわけで、いつまでも残るものは

                  信仰と希望と愛です。

             その中で一番すぐれているのは 愛です。』


                                (新改訳第2版)



             .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*


    『げに 信仰(しんこう)と
              希望(のぞみ)と
              愛(あい)と

       此(こ)の三つの者は 限りなく存(のこ)らん、

       而(しか)して 其(そ)のうち最も大(おおい)なるは

             愛(あい)なり。』

               (文語訳)

             .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*


   "And now abideth faith, hope, charity, these three;

    but the greatest of these is charity."

               (KJV = King James Version,欽定(きんてい)訳)




   
        (写真:西欧ではなく、日本の西の方の、とある学校の玄関です…)

                 
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする