ときおり、外国語を話す方の福音や聖書の学びを聴くことがある。すべてと言うわけではないが、良い時間だったと感じることが多い。
そのため、逆に、「1時間あっても、通訳の時間があるから、実質30分の内容しか聞けない」という残念そうな声を聞く。
だが、最近、ふと思う。
その「間」があるからこそ、良いのかもしれない、と。
その外語を理解できる人は、2度聞き、2度笑い、
日本語のみの人は1度聞き、かつ、それを思い巡らす時間が生じる。
それもまた、良いのかもしれない。
無駄ではない。
そのため、逆に、「1時間あっても、通訳の時間があるから、実質30分の内容しか聞けない」という残念そうな声を聞く。
だが、最近、ふと思う。
その「間」があるからこそ、良いのかもしれない、と。
その外語を理解できる人は、2度聞き、2度笑い、
日本語のみの人は1度聞き、かつ、それを思い巡らす時間が生じる。
それもまた、良いのかもしれない。
無駄ではない。
『神は、一度告げられた。
二度、私はそれを聞いた。
力(ちから)は、神のものであることを。』
(旧約聖書・詩編62篇11節)
二度、私はそれを聞いた。
力(ちから)は、神のものであることを。』
(旧約聖書・詩編62篇11節)