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(ボリビアのウユニ塩湖。標高約3,700mにある
南北約100km、東西約250km、面積約12,000km²=新潟県の面積)
…文学で古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩の話を
思い出すことがある。
この場合、相手は書物で、人間ではないのだから、
「塩をいっしょになめる」というのもちょっとおかしいのだけれど、
すみからすみまで理解しつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典との
つきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。
読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本には
かくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、
と新鮮なおどろきに出会いつづける。
**************
長いことつきあっている人でも、なにかの拍子に、あっと思うようなことがあって
衝撃をうけるように、古典には、目に見えない無数の襞(ひだ)が隠されていて、
読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくることがある。
しかも、一トンの塩とおなじで、
その襞は、相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれる。
イタリアの作家カルヴィーノは、こんなふうに書いている。
「古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、
すっかり知っているつもりになっていながら、
いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、
かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ。」
(須賀敦子『塩一トンの読書』から抜粋)
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<前の記事>
・『塩一トンの読書』 壱
<後の記事>
・『塩一トンの読書』 参
南北約100km、東西約250km、面積約12,000km²=新潟県の面積)
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…文学で古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩の話を
思い出すことがある。
この場合、相手は書物で、人間ではないのだから、
「塩をいっしょになめる」というのもちょっとおかしいのだけれど、
すみからすみまで理解しつくすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典との
つきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。
読むたびに、それまで気がつかなかった、あたらしい面がそういった本には
かくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、
と新鮮なおどろきに出会いつづける。
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長いことつきあっている人でも、なにかの拍子に、あっと思うようなことがあって
衝撃をうけるように、古典には、目に見えない無数の襞(ひだ)が隠されていて、
読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくることがある。
しかも、一トンの塩とおなじで、
その襞は、相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれる。
イタリアの作家カルヴィーノは、こんなふうに書いている。
「古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、
すっかり知っているつもりになっていながら、
いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上まわる、
かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ。」
(須賀敦子『塩一トンの読書』から抜粋)
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<後の記事>
・『塩一トンの読書』 参
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