『十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、
イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
「あの方の手に釘(くぎ)の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、
この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない」。
(新約聖書・ヨハネの福音書20:24-25,新共同訳)』
イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
「あの方の手に釘(くぎ)の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、
この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない」。
(新約聖書・ヨハネの福音書20:24-25,新共同訳)』
イエスの弟子の中に、『疑い深いトマス』というレッテルを貼られた人がいる。
デドモ(英:Didymus,希:Δίδυμος「双子」)と呼ばれるトマス(アラム語でも「双子」)。
イエスの12弟子のひとり、この『双子』さんは、諸説あるもののなぜ『双子』と呼ばれたのかは不明。イエスの死後、インドに伝道したとも言われる人だ。
私は、彼を好きではなかった。
今回、ここを伝えるよう示され(別訳:インスピレーション)なかったら、しばしば「もったいない使われ方」をされる箇所だね、で終わっていただろう。
だが、何と言うべきか。
イエス自身が、「わたしは十字架につけられ、死者の間からよみがえる」と説明しても、
十字架刑ののち、女たちが「先生が生き返った!」と伝えても、弟子たちは、信じなかった。
つまり、疑い深い(信じられなかった)のは、トマスだけではないのだが、このトマスだけが、後世まで『疑い深いトマス』と、語り継げられている。(可哀そうに)
その元となったのは、おそらく、冒頭の「目に見える証拠を!」と要求した場面だろう。
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さて、ここで「イエスは復活したんです!」だけを取り上げるのはフェアではない。
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では、もしも「イエスは復活しなかった」としたら?
トマス以外の弟子たちは、イエスを処刑させたユダヤ人たちを恐れたあまりに、狂言を言ったのだろうか。
それとも、集団錯覚にでも陥ったのだろうか。
実は、別の人がイエスの代わりに十字架にかかったのだろうか。
実は、イエスはもともと死んでいなかったのだろうか。
その伝道のために、何百人、何千人の人が死んだ、というのは、それに対する説得性のある答えにはならない。なぜなら、うそ偽りのためでさえ、人は信じて死んでいき(ex.太平洋戦争)、信念や信仰ゆえに殉教するのは、ムスリムだろうと仏教徒だろうと共産主義の人であろうと、同様だからだ。それでは、『説明』にならない。
もしも「イエスが復活しなかった」としたら?
話は簡単だ。
もし、イエスが十字架にもかからず、
復活もしていなかったとしたら。
聖書-この当時は、書簡-自身が言っている。
「私たちは、全ての人の中で一番哀れな者」(コリント第一 15:19)
である、と。
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では、逆に、もしも、本当に「イエスが復活した」としたら?
イエスを見た者たちは、
「イエス様を見ました!」
「お墓に行ったら、かくかくしかじかで・・・!!」
「信じられないんですが、本当なんです!!」
「私が言っているコトを信じてください(>_<)!」
と言うしかないだろう。DNA鑑定? 指紋採取? そんなもの、2000年前にあるわけがない。
だが、そんなことを言われた身になってほしい。
「そりゃ、先生が生き返ったらいいけれど・・・」
「そりゃあ、先生は、色んな奇跡をなすったけれども・・・、さすがに・・・」
「おい、嘘八百言うんじゃねえ。人が生き返るんなんざ、エリヤの時代じゃねえか。・・・あ、ラザロがいたっけ」
「いやいやいや。いやいやいや。」
「もうちっと、確証となる証拠、見せてくれません?」
となるだろう。
見た者は見た、としか言いようがない。
聞いた者は、信じられない、としか言いようがない。
それぞれの中に、そのことをめぐって、フラストレーションがたまっていく。
前者「せっかく、いい話を伝えたのに・・・!」
後者「一体、何が面白くて、そんなバカげた話を言うんだ。いい加減にしてくれ」
どんどん、溝は大きくなる。
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あのときは、結局、
両者の間に、イエスご自身が現れることによって、解決した。
だが、現代は?
あの当時も今も、同じ問題が続いている。
だが、今、一人ひとりに、イエスご自身が肉体を持って現れる、ということはない。
あのとき、「見ずに信じる者は幸い」だと、イエスご自身がおっしゃったこと、
そのときの手がかりとなる聖書それ以外には、私たちには遺されていない。
私たちの間には、大きな隔(へだ)たりがある。
この大きな溝(みぞ)は、いったいどうすれば、解決するだろう。
(To be continued)