さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

デドモと呼ばれたトマス(1) a

2013-06-30 06:29:03 | Sunday 聖書
『十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、
イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
 「あの方の手に釘(くぎ)の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、
この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない」。


  (新約聖書・ヨハネの福音書20:24-25,新共同訳)』






 イエスの弟子の中に、『疑い深いトマス』というレッテルを貼られた人がいる。

 デドモ(英:Didymus,希:Δίδυμος「双子」)と呼ばれるトマス(アラム語でも「双子」)
  イエスの12弟子のひとり、この『双子』さんは、諸説あるもののなぜ『双子』と呼ばれたのかは不明。イエスの死後、インドに伝道したとも言われる人だ。

 私は、彼を好きではなかった。
 今回、ここを伝えるよう示され(別訳:インスピレーション)なかったら、しばしば「もったいない使われ方」をされる箇所だね、で終わっていただろう。

 だが、何と言うべきか。
 イエス自身が、「わたしは十字架につけられ、死者の間からよみがえる」と説明しても
十字架刑ののち、女たちが「先生が生き返った!」と伝えても弟子たちは、信じなかった
 つまり、疑い深い(信じられなかった)のは、トマスだけではないのだが、このトマスだけが、後世まで『疑い深いトマス』と、語り継げられている。(可哀そうに)

 その元となったのは、おそらく、冒頭の「目に見える証拠を!」と要求した場面だろう。


     ***************


 さて、ここで「イエスは復活したんです!」だけを取り上げるのはフェアではない。


     ***************



 では、もしも「イエスは復活しなかった」としたら?

 トマス以外の弟子たちは、イエスを処刑させたユダヤ人たちを恐れたあまりに、狂言を言ったのだろうか。
 それとも、集団錯覚にでも陥ったのだろうか。
 実は、別の人がイエスの代わりに十字架にかかったのだろうか。
 実は、イエスはもともと死んでいなかったのだろうか。

 その伝道のために、何百人、何千人の人が死んだ、というのは、それに対する説得性のある答えにはならない。なぜなら、うそ偽りのためでさえ、人は信じて死んでいき(ex.太平洋戦争)、信念や信仰ゆえに殉教するのは、ムスリムだろうと仏教徒だろうと共産主義の人であろうと、同様だからだ。それでは、『説明』にならない。


 もしも「イエスが復活しなかった」としたら?
 話は簡単だ。

 もし、イエスが十字架にもかからず、
 復活もしていなかったとしたら。

 聖書
-この当時は、書簡-自身が言っている。

「私たちは、全ての人の中で一番哀れな者」(コリント第一 15:19)
 である
、と。


       *****************


 では、逆に、もしも、本当に「イエスが復活した」としたら?

 イエスを見た者たちは、
「イエス様を見ました!」
「お墓に行ったら、かくかくしかじかで・・・!!」
「信じられないんですが、本当なんです!!」
「私が言っているコトを信じてください(>_<)!」
と言うしかないだろう。DNA鑑定? 指紋採取? そんなもの、2000年前にあるわけがない。

 だが、そんなことを言われた身になってほしい。
「そりゃ、先生が生き返ったらいいけれど・・・」
「そりゃあ、先生は、色んな奇跡をなすったけれども・・・、さすがに・・・」
「おい、嘘八百言うんじゃねえ。人が生き返るんなんざ、エリヤの時代じゃねえか。・・・あ、ラザロがいたっけ」
「いやいやいや。いやいやいや。」
「もうちっと、確証となる証拠、見せてくれません?」
となるだろう。

 見た者は見た、としか言いようがない。
 聞いた者は、信じられない、としか言いようがない。

 それぞれの中に、そのことをめぐって、フラストレーションがたまっていく。

前者「せっかく、いい話を伝えたのに・・・!」

後者「一体、何が面白くて、そんなバカげた話を言うんだ。いい加減にしてくれ」


 どんどん、溝は大きくなる。



         **************


 あのときは、結局、

 両者の間に、イエスご自身が現れることによって、解決した。



 だが、現代は?
 あの当時も今も、同じ問題が続いている。

 だが、今、一人ひとりに、イエスご自身が肉体を持って現れる、ということはない。




 あのとき、「見ずに信じる者は幸い」だと、イエスご自身がおっしゃったこと、
そのときの手がかりとなる聖書それ以外には、私たちには遺されていない。



 私たちの間には、大きな隔(へだ)たりがある。



 


 この大きな溝(みぞ)は、いったいどうすれば、解決するだろう。


(To be continued)
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