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イエス・キリストとユダヤ人が話していたとき、こんなやりとりがあった。
**************
彼ら(=ユダヤ人)はイエスに答えた。
「私たちは アブラハムの子孫であって、
決してだれの奴隷(どれい)になったこともありません。
あなたはどうして、
『あなたがたは自由になる。』
と言われるのですか。」
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イエスは彼らに答えられた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
罪(つみ)を行っている者はみな、
罪の奴隷(どれい)です。」
(新約聖書・ヨハネの福音書 8章33-34節)
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聖書は、
『もし、罪(つみ)はないというなら、私たちは自分を欺(あざむ)いている』
(ヨハネの手紙第一 1章8節)という。
罪(つみ)を無視するのは、自分をごまかすことなのだと。
では、罪とは一体何なのだろう。
法にふれなければ、罪ではないのだろうか。
いや、法律は、その時代、その場所で変わる。
法をくぐり抜ける悪人もいるだろう。
人の道に外れた行い…といっても、人により、集団により、善・悪の観念も違う。
また、皆、自分こそ正しいと思うからこそ争うわけで。
「なんで盗んだらいけないのか」
-人のものをとったらいけないのさ。
「なんで、人のものをとったらいけないのさ」
-それで、困るひとがいるからさ。
「困る人がいなければ、とってもいいかい?」
-いや、やっぱりダメ。
・・・いつぞや「なんで、人を殺したらいけないのか」という問いが、人々に衝撃を与え、
物議をかもしだし、いろんな答えや様々な考えが表明された。それと同様。説明しづらいが、
それはいかん、と良心が訴える。
さて、古代ギリシア語…新約聖書の原語…の、『罪』と訳されている「ハマルティア」ということばには、「的外(まとはず)れ」という意味がある。
神様は、何らかの目的をもって、様々な造られたが、
人は、盗んだり、殺したり・・・そんなことをするために造られたのではない。
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ちなみに、このやりとりの直前、イエス・キリストはこう宣(のたも)うた。
「・・・真理は あなたがたを自由にします」(ヨハネ8:33)
『奴隷』は、遠い話ではない。
前にもあり、今もある。
そして、確かに、人は、何かにつながれている。
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彼ら(=ユダヤ人)はイエスに答えた。
「私たちは アブラハムの子孫であって、
決してだれの奴隷(どれい)になったこともありません。
あなたはどうして、
『あなたがたは自由になる。』
と言われるのですか。」
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イエスは彼らに答えられた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
罪(つみ)を行っている者はみな、
罪の奴隷(どれい)です。」
(新約聖書・ヨハネの福音書 8章33-34節)
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『もし、罪(つみ)はないというなら、私たちは自分を欺(あざむ)いている』
(ヨハネの手紙第一 1章8節)という。
罪(つみ)を無視するのは、自分をごまかすことなのだと。
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法にふれなければ、罪ではないのだろうか。
いや、法律は、その時代、その場所で変わる。
法をくぐり抜ける悪人もいるだろう。
人の道に外れた行い…といっても、人により、集団により、善・悪の観念も違う。
また、皆、自分こそ正しいと思うからこそ争うわけで。
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「なんで盗んだらいけないのか」
-人のものをとったらいけないのさ。
「なんで、人のものをとったらいけないのさ」
-それで、困るひとがいるからさ。
「困る人がいなければ、とってもいいかい?」
-いや、やっぱりダメ。
・・・いつぞや「なんで、人を殺したらいけないのか」という問いが、人々に衝撃を与え、
物議をかもしだし、いろんな答えや様々な考えが表明された。それと同様。説明しづらいが、
それはいかん、と良心が訴える。
さて、古代ギリシア語…新約聖書の原語…の、『罪』と訳されている「ハマルティア」ということばには、「的外(まとはず)れ」という意味がある。
神様は、何らかの目的をもって、様々な造られたが、
人は、盗んだり、殺したり・・・そんなことをするために造られたのではない。
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ちなみに、このやりとりの直前、イエス・キリストはこう宣(のたも)うた。
「・・・真理は あなたがたを自由にします」(ヨハネ8:33)
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前にもあり、今もある。
そして、確かに、人は、何かにつながれている。
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