手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

天皇陛下のお言葉を拝聴しました

2016-08-08 18:31:35 | 政治
  今日の午後は手稲第一教場の詩吟で、いつもなら15時過ぎてから帰宅するのですが、今日は3人で早めに終わらせました。天皇陛下のお言葉を聞くことを考えてではなかったのです。居間に落ち着いて間もなく天皇陛下のお言葉を聞くこととなりました。
 陛下のお気持ちが、淡々と、しっかり言い切られていました。平成になって28年、ということは在位28年ということになるのですが、82歳におなりになられての体調などは私も86歳になり80歳を過ぎてからの体調の変化は想像に絶するものがありよく理解できます。そして象徴としての天皇のお仕事を全霊を捧げて遂行されてきたことがいたいほどよくわかりました。

 身体的に自分に課された象徴としての仕事を自分が納得できるよう遂行しようとしても、体力が許さなくなってることを感じていられるのです。そのためには皇位継承を出来るようにしてほしいというお心だと理解しました。

 テレビの解説などを聞いていると、皇位継承での生前譲位の定めはなく、お気持ちを尊重するためには、かなりの手続きが必要だということが分かりました。そしてそんなに簡単なものでないことも知りました。

 天皇陛下のお気持ちをこのようにお聞きしたからには、可及的速やかに法的整備をしてゆくことが大事でしょう。

 お言葉の中に葬儀、即位などの行事に大変な時間を割いていることに触れていたが、これは簡素化できるところは簡素化しても良いのではないかというお気持ちだったように感じた。

 本当に誇張した表現はなく、今まで天皇陛下としてなされてきた象徴としての国政に込められていた思いがよく伝わるお言葉でした。
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尖閣諸島近海での忠告の不穏な動き

2016-08-07 19:17:01 | 政治
  中国がきっとやるだろうと思っていた行動が起こっている。200隻からの漁船を引き連れて公船が排他的経済水域を航行しているという。

 中国は尖閣諸島を中国の領土とし、日本が実効支配しているのを非難している。しかし、中国との衝突を避ける意味もあって、日本は尖閣諸島に漁港も、燈台も建設しないで、国有地として管理している。更に日米安保の防衛範囲としてアメリカも認めているので、中国も簡単に手を出すことはできないのだけれど、手を出す時はまず漁船団を向かわせ、それを日本が強制排除することになると、自国の漁民を助けるという名目で軍事力を行使する行動に出てくる可能性が高い。もしも、日本が尖閣のどこかに港を作ったりしたら忽ち行動に出てくると思う。今、漁船を航行させているだけだけれど、だんだん領海内に入りこませる方向へ進めるのじゃないだろうか。

 日本の手の内を探っているといえる。日米安保がある限り極端な行動はしないかもしれないけれど、漁船による領海侵犯は多くなるかもしれない。

 太平洋戦争か終わって70年、大戦争になる可能性は低いけれど、ウクライナに対するソ連のやり方、シリヤの政府軍への援助、シリヤの内戦は、ソ連の政府軍援護で今の状態がある。今、世界はソ連・中国の拒否権行使で平和的解決がむつかしくなっている。話し合いの解決はできない。中国の南沙諸島の軍事基地化の先には尖閣諸島に矛先か向いているのかもしれない。

 世界から原子爆弾をなくす。軍備は縮小する。二度と戦争は起こさない。起こしたくないと普通の人は思うでしょうが、北朝鮮のミサイルが日本の領海に飛んできたりする。

 戦争放棄している日本には、刃を向けないということはあまりにも楽観すぎる。戦争は起こさなくても、それを弱みとみる外圧もあることを考えなくちゃらない。

 沖縄で沖縄独立運動などがなされている。この運動を一番喜ぶのは中国でしょう。アメリカが日本から手を引き、安保が無くなればまず尖閣、そして沖縄へと手は伸びてくるでしょう。そんなことはないという根拠はないのです。

 勝手なことを書いたけれど、今自衛隊の緊急発進の回数は毎年増えているという。自衛隊がなければ勝手に日本の領空を外国の飛行機が飛び回っているのかもしれません。今独立国は、独立国として自分の国は自分で守るということは避けられないことだと思う。
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文化協会のあれこれ (先回に続く)

2016-08-06 19:33:26 | 手稲文化協会関係
私が手稲文化協会に加盟したのはまだ現役で手稲に詩吟の教室を立ち上げてすぐだつた。手稲文化協会については秋に文化祭を開催していることだけしかわからなかった。自分の詩吟の教室ができたので、文化祭に出演させるために加盟しました。

 平成11年にたまたま文化協会会計委員を委嘱され、この年が文化協会創立50周年で、記念誌の編集を依頼され、何とかまとめたけれど、とても不自然な文化協会の姿に驚いた。手稲区が独立して10年になり、区民センターもでき、文化施設は充実してきているけれど、文化協会の活動はその存在すらよくわからなくなってきていた。役員となり文化祭の運営にかかわるようになってきたが、文化協会の文化祭とは言えないのです。コミュニティセンタ―運営委員会と共催の形で開催されていて、文化祭当日になったら私の知らない方たちが大手を振って指揮しいて、文化協会の存在はただ所属サークルが出演するだけ。しかも演芸は観客もまばら、文化協会の存続すら危ぶまれる状況だった。平成4年には事務局長を担当することになりました。ここで、文化祭は文化協会゛やるので、コミュニティセンターの運営委員の協力はいらないということを申し入れ、文化協会が名実共に文化祭を仕切ることにしました。更に、コミュニティセンターは立地条件が悪いので、区民センタ―で文化祭を開催できるようにと考え運動に乗り出しました。

 その第一弾として、チャリティ伝統芸能祭を開催する計画を立て、区長交渉をして区民センターの使用料免除を承認して頂き、開催し大成功を収めました。そしてチャリティ収益から20万円ほど有珠山の災害義援金として送ることができました。これをきっかけにして文化祭の区民センター開催を実現するべく地域振興課とも話し合い、ついに、文化協会独自の文化祭を区民センターで開催出来るところまでこぎつけました。区民センター使用料減免で1年開催したところで、指定管理者制度の問題が出てきて、区民センターの使用料減免がむつかしくなってきました。それで、使用料の助成を求めてかなり激しい手稲区との交渉をしました。指定管理者制度の実施を一年遅らせ、次の年は半額文化協会負担ということでしたが実質文化協会負担での開催となりました。更に文化協会の活動の幅をひろげてきました。チャリティ伝統芸能祭は、発展的に解消し、チャリティ舞踊の集いと年忘れ芸能大会を立ち上げ、さらにカラオケフェスティバルを立ち上げてきました。

 その過程の中で文化祭のありかたについて、区に一定の助成を申し込みつつも、指定管理者制度が確立し、実質文化祭の費用は文化協会が負担しなければならないことが確実になってきました。その時、文化協会としての対応策も見えてきていました。三回開催されるチャリティ収益を、文化祭開催資金とすればもチャリティはむつかしくても、文化祭を開催するめどは立っていたのです。

 その時に、地域振興課が仲立ちとなって区民センター文化祭と共催することにしてほしいという申し入れがあった。文化協会独自で開催するめどが立っているので、断ったのですが、当時の区民センタ―運営委員長の氏家氏と話し合う設定がされ、その席で氏家さんから区長からも話があった。小樽札幌間の文化活動の拠点として、文化活動を推進する核となってほしい。お互いそれを目指して頑張りましょう。文化祭の費用については一切面倒をかけないと断言されたのです。そして今に至っています。

 あの時の氏家さんとの話し合いは、ほとんど反故になっている。確かに文化祭は共催として、文化協会は費用面の負担はかなり軽いところで終わってはいます。しかし、文化協会を盛り上げる。いわば文化団体はみんな文化協会に加盟する。そんな方向で例えば文化祭の一般参加の会には是非文化協会に加盟してほしいというような勧め方のできる関係であれば理想的なのだけれど、その関係は全くできていない。

 手稲区の文化団体を網羅出来る方向性を志向する幹部の発想がなければならない。手稲区と協議して文化活動表彰についても、文化協会に所属する団体、個人の表彰をしてもらうことも大切なことかもしれない。やはり、そんな発展的な思考を出来る会長がほしい。
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手稲文化協会 臨時総会に出てきます

2016-08-05 15:45:17 | 手稲文化協会関係
  手稲に文化協会がある。札幌十区で文化協会があるのは手稲だけで、特筆されるのだが、実はあまり自慢のできることではないのです。

 手稲はかつて軽川村だった。それが手稲になり、札幌市に併合され最初は西区手稲だった。それが人口増加で手稲区が独立して今の手稲区となった。文化協会は手稲の時代に発足して、西区手稲のころは手稲文化協会として札幌文化連盟総連合(文団協)に加盟所属していたのだが、手稲区として手稲が独立した時、文団協から離脱して手稲文化協会を名乗ったのです。そして手稲文化祭をコミニティセンター運営員会の中に組み込まれ、文化祭はコミニティセンターの文化祭と同一のものとなっていたのです。文団協に所属していた時は札幌市の文化活動表彰の対象となっていたのですが、文団協から離れたのでその枠から外れ、しかし、独自の団体として手稲の文化活動をリードしてきているのです。

 文化協会というのは地方の市町村どこにも有りまして、これは地方では大きなウエイトを持つ団体なのです。市町村では文化団体は文化協会一つで、すべての文化サークルが所属しているのです。従って文化協会長というのは市町村での大きな役職になるのです。

 その点、手稲文化協会は途中での活動の挫折が尾を引いているのです。即ち、手稲区となったときの会長の手腕が団体をまとめ切る力に欠けていたということになるのでしょう。

 私が、文化協会事務局長になってから、文化協会を認めてもらえるところので引き上げてきたけれど、本来文団協と同じにならなければならないものが、中途で終わり現状を抜け出すことができなくなっている。時間が無くなりました・続きを後でまとめてみることにします。
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「人生五十」という時代もあったのだ

2016-08-04 19:57:05 | 身辺雑記
 南北朝の時代の細川頼之の「海南行」では「人生五十功無きを愧ず」と謳いだされる。此の当時は、平均寿命が50歳前後だったのかもしれない。昭和の時代では人生60のように感じてきていた。

 先日今の日本の平均寿命が男子で80歳、女子で86歳というような発表があった。86歳の私です。かなり儲けの人生を送っていることになる。これは私だけのことではなく、学生時代の同級のものを思い浮かべてみると、確かに亡くなったものも多い。でもそれ以上に今も元気な仲間が多い。私だけの儲けの人生てなく、その恩恵を受けているものは多いのだ。しかし、病気などを抱えているものも多い。私も病気を抱え決して元気といえる状況ではないけれど、週に5回、詩吟を教え、暇を見てカラオケを楽しんだりしている。

 平均寿命を超えて、このような生き方ができていることは喜んで良いことなのでしょう。

 60歳定年で現役を退き、しがらみから切り離され、のびのびと生きてきた。とりわけ現役で始めた詩吟が退職後は詩吟の師匠として打ち込めるようになり、かなりの生徒さんに囲まれて、楽しく、充実した毎日を送ってきた。

 振り返る過去にはいろいろなことがあるけれど、私の人生は詩吟で充実した人生となっていて良い人生だったと言い切れるように思う。

 これから残りの人生がどんなことになるのか判らないけれど、未練のない人生を締めくくれるのではと思ったりする。
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俺の昭和が遠くなる

2016-08-03 20:04:42 | 身辺雑記
 新沼謙治の新曲で「俺の昭和が遠くなる」という曲か出た。一昨年ですか山崎悌二さんが「昭和男歌」を出してヒットした。そのころから昭和を懐かしむ歌がいろいろできていた。

 8月に入りました。私の若かりし頃は8月2日がキャンプ旅行の出発日でした。360CCのミニカーで三泊か四泊のキャンプに行った頃のことが懐かしく思い出される。テントも三角テント、キャンプが終わったころから秋の気配が深まるのでした。

 思えば昭和が終わった時に、現役が終わったのだ。良い時代に現役生活を送らせてもらった。札幌に転勤しての10数年は楽しい思い出が詰まっている。三日に一度は飲みに出かけていた。豪勢な遊びとは言えないが、今の時代には考えられない楽しみの満ち溢れた生活があった。

 小樽の石原裕次郎記念館が無くなるようだ。楽しい昭和の象徴みたいな記念館が無くなる。あの当時は映画も楽しかった。映画館はつぶれるようになり、歌も演歌よりハードロック、ポップスと昭和生まれはついてゆけないものになってきた。

 自分の体ももうあの当時の生き様には耐えられなくなっている。本当に昭和は遠くなったのです。
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福祉センター詩吟

2016-08-02 19:10:15 | 詩吟関係
  10月からの会館の閉館に伴う稽古について、希望を提出してもらった。

 月曜日に7名、金曜日に3名と別れました。とにかく継続できる人が10名いますので、何とか乗り切れるのでしょう。

 今日は、前半先週もやりました「余生 良寛」をやり、後半は「大楠公 徳川景山」をやりました。大楠公で建武の中興と楠木正成について少しと時間をかけて話してあげました。

 今日の出席者は17名でした。男性で90歳を超えて元気だった大西さんが姿を見せなくなりました。体調が悪くなったのだと思います。又、施設に入った石井さん、先週は出てきていたけれど今日は欠席でした。詩吟に対する執念は凄いのですが、もう限界なのでしょう。最近は続けてきてくれていた永井さんが3週連続で欠席。この後どうなるのかちょっと心配です。

 話は別になりますが、教室の運営も限界に近付いているのかもしれません。現在の少ない会員はそれなりに頑張ってくれているけれど、この後会員増加はほとんど不可能に近い。今、連続する大会等の参加で頭を痛めています。会員が40名近くいたころの余韻が残っていて、かなりのことができそうに思いつつ、苦しんでいる。少ない人数だと割り切ってしまえば楽なのでしょうが、会員の皆様に無理を押し付け、形を整えようとしている。20名を切った会員数です。会の持続は何とかなるのですが、大会などへの参加は無理が利かなくなっていることを知るべきなのでしょう。

 現状で思うようには進められませんが、やれる範囲で何とか乗り切ります。
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中村八重子さんの訃報を受けました

2016-08-01 19:29:46 | 詩吟関係
  17時ころでした。電話が入り、「中村八重子の息子です」といわれ、びっくりした。更に「母八重子が今日亡くなりました。これまでお世話になりありがとうございました。とても安らかな最後でした」という。びっくりして何といえばよいのかもわからないほどのショックだった。今はただただご冥福を祈るだけです。

 中村八重子さんは東京浅草生まれのちゃきちゃき江戸っ子でした。たまたま縁があり私の詩吟の会、手稲第二教場にお入りいただいたのでした。しかし、間もなく小樽商大に勤務されていた息子さんが東京の大学に勤務することとなり神奈川に居を移されたのですが、私の詩吟の会が毎年開いている交歓吟詠会にはお出でになり、皆様と交流してくださっていました。

 交歓吟詠会には毎年70名くらいの方が参加いただけているのですが、東京からOBの方が毎年出席しているということは皆様の驚きとなっていましたし、私にとっては一つの誇りでもありました。もともとカラオケのサークルに所属していて、私の誘いで詩吟にも入ったのでしたか、交歓吟詠会にいらっしゃった折は、当時のカラオケの仲間とも交流されている素敵な方でした。

 先月、高島屋からの中元を送っていただいたので、お礼の電話を入れました。その時電話に出てくれました。今年の交歓会は欠席だったのですが、丁度三社祭りとぶつかっていましたから、多分それでこれなかったのだと思っていましたので、来年は都合が良ければ是非参加して下さいと話したのでした。そのあと何日かしてお中元のお礼にメロンを贈ってあげたのでしたが、電話がなかったのでちょっと気にしていたのですが、入院していたようでした。膵臓の方が悪かったみたいです。御歳もまだ76歳くらいだと思います。

 素晴らしい方を失いました。
 八重子さん、今まで本当にありがとうございました。碌峭会交歓吟詠会の花が一輪散ったようです。神奈川までお参りに行くことはいできません。遠く手稲の地で心からの゛冥福をお祈りします。どうぞ安らかにお眠りください。さようなら・・・。
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