毎日が日曜日・でも多忙です!

おかげさまで、毎日を元気に楽しく過ごしています。普段の出来事、思いつくことなどフリーの立場で記録したいと思います。

秀岳館、横浜を破る。

2017-08-12 11:54:42 | 日記

 自称「高校野球の大ファン」、甲子園の試合が始まるとテレビの前から離れられない。

 4日目、熊本代表の秀岳館が6対2で横浜を破った。痛快、痛快。おめでとう。

 横浜は今大会屈指の打撃のチーム。秀岳館の試合開始後の速攻が功を奏した。先発の川端投手、横浜の強力打線を被安打2、失点1に抑える好投だった。秀岳館の必勝パターン、7回に田浦投手がリリーフしたが、投げ始めてすぐに足がつり3ランホームランで3点を失い2点差にせまられた。だが、最後は見事なチェンジアップで切り抜け勝利を手にした。

 2回戦の相手は広島広陵。これも手ごわい相手。左投げの平元投手は最速146㌔の速球を持つ。捕手の中村選手は今大会1回戦でホームランを打っている。

 秀岳館がんばれ。3回戦進出を祈ってエールを送ります。


「山の日」が思い出させてくれた若き日の山々

2017-08-11 16:14:36 | 日記

 「山の日」が新しく国民の祝日となったのは、2016年のこと。祝日法第2条では、「山にに親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としているが、山に関する特別な出来事などの明確な由来はないそうだ。「海の日」と違って、式典も行われない何の変哲もない、なじみがたい祝日だが、若いころによく登った山の楽しさを思い起こさせてくれた。

   主な山だけでも英彦山、久住、祖母、傾き、大崩、普賢岳、天山、阿蘇、根子岳、雁俣、国見、市房、韓国、高千穂、開聞 と九州の名のある山にはほとんど足を運んだ。なんども登った山がある。

 15歳で有線通信士となって最初に勤務したのが門司電報局。慣れない仕事は大変だったが、楽しみは近くの山のそぞろ歩き。暇を見つけては近くの福知山、風師山、皿倉山や足立山などトレッキングした。九州の最高峰久住山にはじめて登ったのは17歳の時だった。 

 日田英彦山線の始発駅東小倉から日田彦山線で約時間、日田の夜明駅で久大線に乗り換え豊後中村駅で下車する。登山口の長者原までバスで約1時間。雨ヶ池を抜け、法華院温泉に着いたのは夜暗くなってから、温泉で汗を流し明日の登山に備えたたものだ。澄み切った夜空の星のきれいだったこと、寒の地獄の冷泉のしびれるように冷たいこと、昨日のことのように思い出した。

 人吉では何度も市房山に登った。険しい山だった。登りだけで約4時間近くかかって急坂を上らなければならない。頂上についたとき、山の神様が1回目は”よく来たね”といい、2回めは”またきたか”となり、3回めは”お前バカか”というと、土地の人は言っている。あけぼのつつじやみつばつつじが、山全体を紫色に染める幻の世界でもあった。馬鹿といわれてからも息を切らせながら何回か登った。また週に1度は必ずといってよいほど、韓国岳から高千穂河原まで縦走した。

 九州最南端の開聞岳も忘れられない山だ。開聞だけは富士山と見間違うほどの独立峰、錦江湾の入り口にそそり立っている。さざえのように渦巻いた登山道も頂上での景色も抜群だ。東の佐多半島から種子島・屋久島、西の太平洋まで一大パノラマが広がっている。

 退職後は、熊本市の西にある標高666㍍の金峰山に毎日のように登った。頂上からは雲仙岳や平成新山が手に取るように見える。1000回登山を志したが、その途中で体を壊し320回ほどで計画は挫折した。

 傘寿を過ぎてからは、体力的にも高い山に登ることはできない。夢ではあるが、生あるうちにもう1回、みやまきりしまの咲きみだれる久住に登ってみたい。法華院からみたあの美しい星空を眺めてみたい。 


72回目の原爆の日を迎えた長崎・「核兵器は絶対悪」

2017-08-09 12:01:30 | 日記

 午前11時2分。長崎に向かって、原爆被災者のご冥福を祈りながら1分間の黙とうを捧げた。 

 第2次世界大戦も末期、72年前の8月9日11時2分、長崎に1発の原爆が投下された。この1つの兵器で、長崎市の人口24万人(推定)のうち死者7万4909人、負傷者7万4909人、建物は約36%が全焼または全半壊した。今年もまた、原爆死没者名簿に3,551人の名前が書き加えられた。

 米軍の当日の原爆投下作戦は第一目標は小倉市(現北九州市)、第二目標は長崎市と決められていた。朝早くテニアン島から原爆を積んだB29が飛び立ち、午前9時44分に第一目標の小倉造兵廠上空に到達したが、目標は、その前日およそ7km離れた八幡市(現北九州市)空襲の残煙とかすみに覆い隠されていた。

 原爆は目視による投下が厳命されている。空襲の残煙とかすみに覆い隠された目標を見た爆撃手が目視による投下確認に失敗。その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返したが失敗、再度3度目となる爆撃航程を行ったがこれも失敗。この間およそ45分間が経過した。

 3回もの爆撃失敗で残燃料に余裕がなくなり、予備燃料に切り替えたものの、その後、天候が悪化。日本軍の反撃体制も予測されたので目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。(被爆後の新聞記事から)

 小倉にかわり長崎の悲劇はこの時に始まった。

 当時、私の家は目標となった小倉造兵廠から約3㌔離れた戸畑市中原にあった。国民学校4年生。毎朝のように空襲警報のサイレンが鳴る。10分か20分たつと敵機襲来のサイレンがなり、全員が防空壕に避難しなければならない。その日の朝は暑かった。空は真っ青。いつもと違い空襲警報が発令されたが、敵機襲来のサイレンはいつまでたっても鳴らなかった。近くの公園では蝉の声が賑やか。待ちきれなくなり蝉を取りに近くの公園に出かけた。夢中で蝉を取っていると、急にあたりが薄暗くなった。東の空を見ると沢山の飛行機が飛んでくる。100機だろうか、それ以上だろうか。グラマン、カーチス、ロッキードP51などアメリカの艦載機群だ。その飛行機はなにか白いものを流している。すだれのように。あとで知ったが電波妨害のための白いアルミ箔だった。

 時間がたってアルミ箔が地上に近ずいた。10歳だったわたしは、喜んでそれを拾いにいった。その時、鋭い飛行機音を耳にした。右横、上空低くにグラマンの姿が見えた。操縦士の顔も見える。危険を感じとっさに地面に這いつくばった。機銃の音がした。バシッ、バシッと地面が跳ねる。約10メートルは離れていただろうか。機銃の跡が2~3メートルの間隔で残っていた。たちまち恐怖に襲われた。人を見れば老若問わず機銃を掃射する。それが戦争なのだと、幼い子供にもその恐ろしさを実感させた。

 長崎の原爆では、大勢の死者が出たことを後で聞いた。原爆が第1目標の小倉であったとしたら、多分わたしも被災していたことだろう。その日のことを72年過ぎた今も、昨日のことのように思い出す。

 その日長崎で平和記念式典が開かれた。田上長崎市長は「今年7月の核兵器禁止条約の採択」を歓迎する一方、日本政府に対し「条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できない」と強く批判した。

 国民の大多数の方がこの思いを共有できるのではあるまいか。


 


第99回全国高校野球大会が開幕

2017-08-08 20:23:26 | 日記

 先月21日に発生した台風第5号は、ジグザグと迷走しながら本土に上陸。本土を縦断しながら全国各地、所かまわず大きな災害を持たらした。台風は怖い。幸いといおうか我が家もだが、北部九州豪雨の被災地に大雨のなかったことは何よりだ。

 ”高校野球大ファン”の老夫婦が待ちに待った甲子園。台風の影響で1日遅れた第99回大会。そんな台風を吹き飛ばすような熱い試合が、大会第1日から数多く見られた。

 第1試合で長崎波佐見、第2試合で福岡東筑の九州勢が好試合を展開したが、両校ともに惜敗、初日にして姿を消した。

 熊本の秀岳館は4日目第2試合で強打の横浜と対戦する。3年の間監督を務めた鍛治舎監督にとっては最後の甲子園。チーム一丸となって必ず勝利し、退任する監督にぜひ花を添えて欲しい。熊本の高校野球ファンや多数の県民の皆さんも力いっぱい応援します。

 

 

 

 


「原爆の日」(一本の鉛筆があれば)

2017-08-06 20:22:56 | 日記

  第15回(昭和49年)広島平和音楽祭で、今は亡き美空ひばりさんが歌う”一本の鉛筆”を動画(ユーチューブ)で見た。「1本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く 1本の鉛筆があれば 人間の命とわたしは書く」(歌詞の一部抜粋)

 1945年8月6日の朝、広島に原爆が投下された。”一本の鉛筆”は美空ひばりさんの唯一の反戦歌だという。

 広島は6日、被爆72年となる「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園で安倍総理も出席し、平和記念式典が開かれ、松井広島市長は平和宣言で改めて核兵器を「絶対悪」と強調し、広島の惨禍を「地獄」と表現した。

 さらに核兵器禁止条約については、各国政府に、唯一の戦争被爆国として「核兵器のない世界」に向けた取り組みをさらに前進させなければなりませんと訴え、日本政府に「核保有国と非保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい」と求めた。これに対し安倍総理の言及はなかった。

 「核兵器のない世界」は被爆国日本の切々とした願い。8月6日の広島、9日の長崎。時の経過で風化させてはならない。「地獄」と表現された被災地の惨禍を、わがこととしたいといつも考える。

 原爆投下の午前8時15分、テレビの前で黙とうした。