地元のJ医大病院から電話があり、心臓カテーテル手術はJ大病院で受
けることになった。心臓血管研究所から執刀医が出張しての施術だそう
である。慣れた地元病院なら、手間や面倒が省けて丁度良い。
心臓の左冠動脈、前下行枝・回旋枝の2本の血管の血行回復治療をする
訳だが、一度の手術で2本処理することは困難らしく、今回は前下行枝
だけの治療だそうである。この枝の閉塞が特殊で施術が難しいとか、な
のだが、どう「難しい」のか、素人であるこちらは、良く分からない。
というわけで今週末、6日程入院する予定である。日程はもしかしたら
伸びるかもしれないし、心臓血管研附属病院で再手術になるやもしれな
い。この手術で死ぬことはなかろうが、どうしても「自分の死」という
観念が、頭から離れないでいる。
今花粉症の季節なので、手術中にクシャミをしたくなったら、どうしよ
うかとか、カテーテル挿入は極めてデリケートな血管治療なので、医師
の手元が狂って血管が破け危篤に陥るなんてこと、ないんだろうか、な
どなど。
私の場合、50歳を過ぎて次々と病が発覚しているので、人間の人生が
50年というのは、本当に実感させられる。大昔なら、数年後に私は心不
全・多臓器不全で死ぬ成り行きだったのだろう。人間の肉体も、本来50
年で減価償却してしまうように出来ているのだ。現代の長寿は主に、医
療技術の進歩、健康衛生思想・知識の普及等に拠っている。
これからは「病」だけでなくさらに、アンチエイジング施術の発達で、
「老」化からも人間が解放されていく。健康が取り戻せるだけでなく、
「若さ」も取り戻せる時代になっていくのだろう。
そんな進歩をドライヴさせている原動力とは、人間の欲なのか、資本主
義という経済原理なのか?
いずれにせよ、我々は、経済・医療等様々なシステムの中を流れて生き、
システムの果てる場所で死ぬのだと思う。
死が個別的なモノなのではなく、システム的な出来事になってしまうと、
生の尊厳の方が霞みかねないが、現代において人間の死とは、その多く
は「自然」な現象ではなく、(医療)システムの力能が及ばない場所で発
生する、人為で量的な出来事なのだ。
死を、その生の個別の果ての死という一回性のものを、システムに葬ら
れる量的な事物ではなく、どう個別のヒトの死として尊厳と意義を取り
戻すべきなのか、過度の意味付け・位置付けも気持ち悪いが、少しは考
えられるべきである。
けることになった。心臓血管研究所から執刀医が出張しての施術だそう
である。慣れた地元病院なら、手間や面倒が省けて丁度良い。
心臓の左冠動脈、前下行枝・回旋枝の2本の血管の血行回復治療をする
訳だが、一度の手術で2本処理することは困難らしく、今回は前下行枝
だけの治療だそうである。この枝の閉塞が特殊で施術が難しいとか、な
のだが、どう「難しい」のか、素人であるこちらは、良く分からない。
というわけで今週末、6日程入院する予定である。日程はもしかしたら
伸びるかもしれないし、心臓血管研附属病院で再手術になるやもしれな
い。この手術で死ぬことはなかろうが、どうしても「自分の死」という
観念が、頭から離れないでいる。
今花粉症の季節なので、手術中にクシャミをしたくなったら、どうしよ
うかとか、カテーテル挿入は極めてデリケートな血管治療なので、医師
の手元が狂って血管が破け危篤に陥るなんてこと、ないんだろうか、な
どなど。
私の場合、50歳を過ぎて次々と病が発覚しているので、人間の人生が
50年というのは、本当に実感させられる。大昔なら、数年後に私は心不
全・多臓器不全で死ぬ成り行きだったのだろう。人間の肉体も、本来50
年で減価償却してしまうように出来ているのだ。現代の長寿は主に、医
療技術の進歩、健康衛生思想・知識の普及等に拠っている。
これからは「病」だけでなくさらに、アンチエイジング施術の発達で、
「老」化からも人間が解放されていく。健康が取り戻せるだけでなく、
「若さ」も取り戻せる時代になっていくのだろう。
そんな進歩をドライヴさせている原動力とは、人間の欲なのか、資本主
義という経済原理なのか?
いずれにせよ、我々は、経済・医療等様々なシステムの中を流れて生き、
システムの果てる場所で死ぬのだと思う。
死が個別的なモノなのではなく、システム的な出来事になってしまうと、
生の尊厳の方が霞みかねないが、現代において人間の死とは、その多く
は「自然」な現象ではなく、(医療)システムの力能が及ばない場所で発
生する、人為で量的な出来事なのだ。
死を、その生の個別の果ての死という一回性のものを、システムに葬ら
れる量的な事物ではなく、どう個別のヒトの死として尊厳と意義を取り
戻すべきなのか、過度の意味付け・位置付けも気持ち悪いが、少しは考
えられるべきである。