精神病で要介護2の母が、何とか週に一回デイサービスに出掛ける様
になってくれた。まだ3時間程度で帰宅するのだが、習字をしたらし
く半紙に「つくし」と書字したものを持ち帰ってきた。朱で花マルが
されていて、思わず微笑ましくなった。
「オトナの幼稚園」に行くんだよと教えているのだが、この表現に納
得しているようだ。前回も記したが、自分が幼稚園に通っていた遠い
日々を、老いた母親に透かし観るようでもある。あの頃の緩い陽射し
や春先の空気の記憶。それらが今と重なり時が止まるようだ。
老人は、また子供に還る。
ボケて子供に戻るのか、「大人」でいることに飽き飽きして、自由だ
った子供時代に戻りたくてそうなるのか。年寄りが子供に還ることは、
老人の特権なのかもしれない。
あまり幼児性を振り回されても困るが、ジェンダーとはまた別の、エ
イジング文化として社会的にも認知尊重されても良いかと思う。
ヒトは生きていれば誰もがやがて老いる。
老いて食事やトイレ更に生活全般をヒトに頼るようになると、個人の
尊厳も世間体も脱ぎ捨ての、大半の老人は「弱者」となる。
近年、女性と子供への保護的取り扱いは、社会的に承認され推進され
る傾向にあるのに、老人に対する配慮(年金暮らしの社会のお荷物と
か)は、寧ろ低下しつつあるかのようにさえ感じる。
「アンチ・エイジング」というのも悪くはないが、生命体は老いるも
のである。「老い」は宿命であり、或いは「救い」かもしれない。
例えば、現実に耐えられずに狂うこと。「狂気」と同じく「老い」も
自己保存への戦略である。それは「弱者」の生き残りへの最期の身振
りなのであり、終焉に向かう生者の、はかなくけなげな挨拶として尊
重されるべきだろう。
になってくれた。まだ3時間程度で帰宅するのだが、習字をしたらし
く半紙に「つくし」と書字したものを持ち帰ってきた。朱で花マルが
されていて、思わず微笑ましくなった。
「オトナの幼稚園」に行くんだよと教えているのだが、この表現に納
得しているようだ。前回も記したが、自分が幼稚園に通っていた遠い
日々を、老いた母親に透かし観るようでもある。あの頃の緩い陽射し
や春先の空気の記憶。それらが今と重なり時が止まるようだ。
老人は、また子供に還る。
ボケて子供に戻るのか、「大人」でいることに飽き飽きして、自由だ
った子供時代に戻りたくてそうなるのか。年寄りが子供に還ることは、
老人の特権なのかもしれない。
あまり幼児性を振り回されても困るが、ジェンダーとはまた別の、エ
イジング文化として社会的にも認知尊重されても良いかと思う。
ヒトは生きていれば誰もがやがて老いる。
老いて食事やトイレ更に生活全般をヒトに頼るようになると、個人の
尊厳も世間体も脱ぎ捨ての、大半の老人は「弱者」となる。
近年、女性と子供への保護的取り扱いは、社会的に承認され推進され
る傾向にあるのに、老人に対する配慮(年金暮らしの社会のお荷物と
か)は、寧ろ低下しつつあるかのようにさえ感じる。
「アンチ・エイジング」というのも悪くはないが、生命体は老いるも
のである。「老い」は宿命であり、或いは「救い」かもしれない。
例えば、現実に耐えられずに狂うこと。「狂気」と同じく「老い」も
自己保存への戦略である。それは「弱者」の生き残りへの最期の身振
りなのであり、終焉に向かう生者の、はかなくけなげな挨拶として尊
重されるべきだろう。