脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「老い」と幼児性。

2017年03月12日 14時37分49秒 | 雑談
精神病で要介護2の母が、何とか週に一回デイサービスに出掛ける様
になってくれた。まだ3時間程度で帰宅するのだが、習字をしたらし
く半紙に「つくし」と書字したものを持ち帰ってきた。朱で花マルが
されていて、思わず微笑ましくなった。

「オトナの幼稚園」に行くんだよと教えているのだが、この表現に納
得しているようだ。前回も記したが、自分が幼稚園に通っていた遠い
日々を、老いた母親に透かし観るようでもある。あの頃の緩い陽射し
や春先の空気の記憶。それらが今と重なり時が止まるようだ。

老人は、また子供に還る。
ボケて子供に戻るのか、「大人」でいることに飽き飽きして、自由だ
った子供時代に戻りたくてそうなるのか。年寄りが子供に還ることは、
老人の特権なのかもしれない。
あまり幼児性を振り回されても困るが、ジェンダーとはまた別の、エ
イジング文化として社会的にも認知尊重されても良いかと思う。

ヒトは生きていれば誰もがやがて老いる。
老いて食事やトイレ更に生活全般をヒトに頼るようになると、個人の
尊厳も世間体も脱ぎ捨ての、大半の老人は「弱者」となる。
近年、女性と子供への保護的取り扱いは、社会的に承認され推進され
る傾向にあるのに、老人に対する配慮(年金暮らしの社会のお荷物と
か)は、寧ろ低下しつつあるかのようにさえ感じる。

「アンチ・エイジング」というのも悪くはないが、生命体は老いるも
のである。「老い」は宿命であり、或いは「救い」かもしれない。
例えば、現実に耐えられずに狂うこと。「狂気」と同じく「老い」も
自己保存への戦略である。それは「弱者」の生き残りへの最期の身振
りなのであり、終焉に向かう生者の、はかなくけなげな挨拶として尊
重されるべきだろう。





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