脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

だれかが風の中で

2008年09月27日 12時07分41秒 | 音楽
70年代初めの中学生の頃、『木枯し紋次郎』という股旅物のTVドラマ
があった。原作は笹沢左保の時代小説で、TVの紋次郎役は中村敦夫。

三度笠を被り長い楊枝をくわえて、陽射しの中、山間の街道を足早に
ひとり過ぎていく紋次郎、長脇差を抜けばケンカ殺法、どのような
仕打ちにもニヒルな態度を崩さず独り耐える姿も渋くて格好好かった。

私が今もって惹かれているのは、あのドラマの主題歌の歌詞である。
「だれかが風の中で」というのはこの歌詞のタイトルである。

「どこかで だれかが きっと 待っていてくれる 
 雲は焼け 道は乾き
 陽は いつまでも 沈まない 
 心は むかし 死んだ

 ほほえみには 会ったこともない 
 昨日なんか 知らない
 今日は 旅を ひとり

 けれども どこかで 
 お前は 待っていてくれる 
 きっと お前は
 風の中で 待っている」
 
(「だれかが風の中で」作詞 和田夏十、作曲 小室等、歌 上條恒彦)

紋次郎は、上州三日月村で生まれ10歳で故郷を捨てて流れ者の渡世人
となる。「心は昔 死んだ」、「昨日なんか知らない」独り者である。
「ほほえみには会ったこともない」、でも「お前は待っていてくれる」
と歌詞は繰り返す。

この「風の中で待っている」「お前」とは誰のことなのか?
親兄弟のような身内でも、恋人でもない見知らぬ誰かなのだろう。
そんな架空のような「お前」を風の中に感じ続け、歩き続ける紋次郎。
天涯孤独の旅の空から吹く風は、永遠の木枯しだったのかもしれない。

それでも「お前」を信じ、無宿者の渡世人を生きることをやめなかった。
木枯し紋次郎は歴史上の実在の人物ではないとされているが、
こんな生き方をしていた、或いはせざるをえなかった無名な人々は、
江戸期のみならず、過去にはいくらでもいたであろう。

松尾芭蕉でさえ、旅に生き旅に死ぬ覚悟で人生のあり方を考えていたろう
し、「古人も多く旅に死せるあり」と芭蕉は旅への憧憬さえ記している。
現代社会では、このような「旅」暮らしの人生を過ごすことがしづらい。
漂泊の人生とは、ホームレスか、国際放浪者になるか位であろうか。

旅立ちをするしないに拘らず、人生は旅のようなものである。
「心は 昔死んだ」、「昨日なんか知らない」。
でも、今日という「旅」をまた独り生きる。
「だれかが風の中で」の歌は、今でも私の心の深くに鳴り響いている。

   


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2 コメント

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だれかとは・・・誰なのだろう。 (おみつ)
2008-09-27 20:16:56
こんばんわ、夢野論人様。「木枯し紋次郎」の検索で辿り着きました。初めまして、おみつと申します。

私のHNで分かるように、紋次郎ファンでブログ「木枯し紋次郎の風景」を公開しています。

http://blogs.yahoo.co.jp/monnjirounoaneomitu/folder/1108606.html

私も「だれかが風の中で」のだれかとは、だれなのか?という謎について記事を書いていますので宜しければ、ご一読頂ければと思いコメント致しました。

当時私も14才で、夢野論人様と同年代です。

ブログ公開を機に、当時多くの中学生が、男女を問わず、多感な思春期の時期に「木枯し紋次郎」を見て、一つのTVドラマの枠を超え、その後の人生観、生き様にも影響を受けた方が沢山いることが分かりました。

だれかとは・・・誰なのか。

TVの前で紋次郎に魅せられたファンの多くが、時を越え、風の中で待っているのは、きっと待っていてくれると期待するのは紋次郎その人で、紋次郎の追い求める「誰か」との二重構造になっていると言うのが、私の考えた結論です。

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風の中に‥誰が‥。 (ユメノ・ロンド)
2008-09-28 12:15:49
おみつ様

初めまして。コメントありがとうございました。
貴ブログも拝見させて頂きましたが、
本格派の紋次郎ファンの方のようで、嬉しくなりました。
私の記事などは、単なる思い出話に過ぎません。

確かに私も、「木枯し紋次郎」の生き方に程度の差はあれ影響を受けた一人であると自認しています。

おみつ様のブログ記事で、紋次郎さんが、この世で逢いたい人間は、自分を間引きから救ってくれた、亡き姉のお光
だけであると告白したシーンが記されてありました。
私は、このストーリーはよく覚えていませんでした。

であれば、紋次郎の「旅」とは死んだ姉の面影を訪ねて放浪する鎮魂の旅、巡礼の旅でもあったのでしょうね。
あの時代、人の命など風に散る木の葉のようなものだったと思われます。紋次郎の原家族も離散していますね。

紋次郎さんは、本当は自分を待つ者なんて、この世に誰一人いないと知りつつも、「きっと風の中で待っていてくれる」という信念を生きる糧に、その有り得ぬ信念を我が身に刻み、天涯の孤独を無心に生き抜いたのだと思います。

でも、いつか何処かの道端で、紋次郎さんも行き倒れ、風に舞う枯葉に我が身を思い浮かべ、その刹那、吹き来る木枯しの中で、亡き姉の懐かしい「ほほえみ」に出逢ったのではないでしょうか。

私勝手な展開と思い入れをお許しください。

私も今もって、「木枯し紋次郎」という、
欲も無く恬淡としていて、タフで心が強く、
孤独で潔い人物に深い愛着と憧憬を覚えています。
草々

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