昔読んだサルトルの言葉に「人間とは無益な受難である」
というのがあった。表題はそれのもじりである。
車谷長吉氏の『物狂ほしけれ』(平凡社)の「徒然草独言」を読んでた。
「名利につかはれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。」
高校の教科書で目にしたような、こんな言葉に今また触れてみた。
今のわが身を顧みると、欲しようとも、何の「名」も「利」も、
求めるべく身分ではないので、自然、名利への欲求がないことに気づく。
確かに、「閑かなる暇」ばかりを、有難くも過ごしている気がする。
兼好法師は、自ら進んで世捨人となり、生涯独身だったそうであるが、
私は、自分から世を捨てられるような格好の良い人間ではない。
世の中の方が、私という精神障害者を捨てた方の、「世捨てられ人」である。
(但し、半分以上は、私の方から、世を捨てたい思いはあるが。)
そんな私が、生きるために再度、世に容れられようと、
自分を奮い立てて、あくせくとパソコンなどを勉強している。
これは存在の喜劇だと思うのである。道化だと言ってもいい。
人の世を生きるには、喜劇や道化を覚悟せねばならないのである。
例えば、かのカラマーゾフ兄弟の父親、フョードル・カラマーゾフは、
そんな人間存在の戯画である。
(ここで、ドストエフスキーの本名が
「フョードル」であることには、特別注意すべきである。)
ドストエフスキーは、人間存在の真実の名において、おそらくは
彼自身の父親に似せて、フョードルを執拗に描写せざるを得なかったのだ。
今、言いたいことは、智慧ある者なら、
ソクラテスのように毒杯をあおれ、ということである。
中身は空疎なのに、自惚ればかりの自尊心が傷ついたくらいで、
「癒し」だの「トラウマ」だの、騒ぎ過ぎである。
この世の喜劇を笑え、時には、おのれに道化を覚悟せよ。
むしろ、そんな方向にこそ、救いがある気がするのである。
というのがあった。表題はそれのもじりである。
車谷長吉氏の『物狂ほしけれ』(平凡社)の「徒然草独言」を読んでた。
「名利につかはれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。」
高校の教科書で目にしたような、こんな言葉に今また触れてみた。
今のわが身を顧みると、欲しようとも、何の「名」も「利」も、
求めるべく身分ではないので、自然、名利への欲求がないことに気づく。
確かに、「閑かなる暇」ばかりを、有難くも過ごしている気がする。
兼好法師は、自ら進んで世捨人となり、生涯独身だったそうであるが、
私は、自分から世を捨てられるような格好の良い人間ではない。
世の中の方が、私という精神障害者を捨てた方の、「世捨てられ人」である。
(但し、半分以上は、私の方から、世を捨てたい思いはあるが。)
そんな私が、生きるために再度、世に容れられようと、
自分を奮い立てて、あくせくとパソコンなどを勉強している。
これは存在の喜劇だと思うのである。道化だと言ってもいい。
人の世を生きるには、喜劇や道化を覚悟せねばならないのである。
例えば、かのカラマーゾフ兄弟の父親、フョードル・カラマーゾフは、
そんな人間存在の戯画である。
(ここで、ドストエフスキーの本名が
「フョードル」であることには、特別注意すべきである。)
ドストエフスキーは、人間存在の真実の名において、おそらくは
彼自身の父親に似せて、フョードルを執拗に描写せざるを得なかったのだ。
今、言いたいことは、智慧ある者なら、
ソクラテスのように毒杯をあおれ、ということである。
中身は空疎なのに、自惚ればかりの自尊心が傷ついたくらいで、
「癒し」だの「トラウマ」だの、騒ぎ過ぎである。
この世の喜劇を笑え、時には、おのれに道化を覚悟せよ。
むしろ、そんな方向にこそ、救いがある気がするのである。