脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「変化しない」という生き方は許されないか。

2011年07月23日 19時45分42秒 | 社会時評
明日で、アナログ・テレビは映らなくなる。
TVはインターネットが普及する以前から、あまり観ていなかった。
3・11に大震災があって、最近よくTVを観るようになったが、
明日からまた、TVなしライフに戻りそうである。

最近まで、NHKの夜のドラマ『下流の宴』(原作:林真理子)
というのを面白く観ていた。
ドラマは既に終了したが、最終回が印象的だった。
若いフリーターの男の子は、医学部に合格した彼女を祝福しつつ、
あっさりと別れてしまう。また自分のペースで生きていこうとする。

家族も学校も、おカネや彼女(恋愛)も、彼を変えることは出来ない
ような、そんな今風な若者である。
彼には、世間的な価値は何の興味もない。自分が自然に<かく在る>
という状態を続けたいだけである。
彼は、反・社会的でも、反・世間的でもない。
敢えて言えば、反・成長的、悪く言えば、自己中毒的な若者である。

個人の成長とか立身出世というものは、国家の発展と同じく、近代
になって形成された近代化の「物語」である。
ヒトも国も進歩・発展していくもの、そうなるべき代物としての、
「物語」が国をヒトをドライヴさせてきたのが、近現代の大衆と
国家社会であり、その歴史である。

国家も人々も、成長・発展へと進歩し変化していかねばならない、
それが「近代化」の必須イデオロギーだった。
ヒトも変化し、成長して「大人」にならねばならない、そう考えら
れてきた。(いや、今でも、そう考えられているのだろう。)

だが、進歩とか成長、変化することは、どうして必要なのだろう?
変化しないで生きる生き方が、どうして許されないのだろうか?

自分は、この今のありのままの自分で満足だし、世間の圧力で変化
を強いられることは苦痛である。自分はただ「自分のまま」でいら
れたら、それ以外何もいらない。何も余計な事は求めていない。

今日の若い男というのは、脱力系とか草食系という言葉があるが、
「変わらない自分」という存在を、気楽にやっていたいだけ。
そんな反・成長、反・変化への傾斜が、若者に兆している気がする。

私は、そのような、競わず、群れず、求めない若者たちを、
ある期待を込めながら、静かに見守りたい、と思う。








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