しばしば世の中には、男と女という二種類の人間しかいない、男女の関係
を元に世の中は流れている、かのように言われる。私は、人間社会とは、
母親と乳幼児の、母子関係の物語、それの変奏だと考えている。
父は不在かと言えば、父とは超越的外部としての、倫理・制度・法・国家
等々として統制的、介入的に存在している。
ところで今日人々は、何故モノを買うか、或いは何を買うのかを考えて
みたい。今日を特徴付ける消費とは、モノの実体への欲望、記号的消費や
アイデンティティをモノに仮託した消費ではない。
消費とは、何かと「つながること」の満足を求めた行動であり、
逆に見返せば、消費とは、自分の現状からの逃走であり、何処かへの出口
を求めての脱出の試みにさえ思える。
つまり、購買や消費とは、何かを金銭に換えて得ることを意味しているが、
消費は、自分の現状から自分を切り離すための、別の系を求めた移動にも
似てたものである。忘我とかストレス解消、癒されたいという言葉で考え
たら分かり易いかもしれないが。
今日的な消費とは、うざい現状からの自分の解き放ちであり、つながるこ
とによる独りからの離脱であり、癒しのような安心と安定感に浸ることが
特徴であると思われる。
このような「つながり」消費への、消費形態の位相変化は、おそらくケー
タイとネットという情報通信ツールの発達と普及が影響しているとは思う
が、それは、ここの議論では本質的な事柄ではない。
ショッピング・アディクション(買物依存症)というのがある。
彼/彼女は、ブランド物のような特化されたアイテムを次々と買い込んで
は、それを手に入れた瞬間から、買った商品に興味や情熱を失っていく。
モノは打ち捨てられ、買物ばかりが次々と続くのだ。
このような依存症は、買うというプロセスに生じる興奮を求めたものと
されているが、私はこんな処に「母子の物語」を感じる。
ここで消費されたのは「つながること」への、回復の試みだと思う。
子(買い手)が求めているものは、遥か彼方に喪失した「母」という安心
と安定の時空、安らぎと癒し、それの仮託的代替物を探しては、「つな
がる」ことであり、象徴的に記せば、「母の乳房」型の消費なのである。
アディクション(嗜癖、中毒)とは、おそらく今では不在である、母の乳房
という禁忌なるものへの郷愁であり、その代替物への衝動と欲望である。
それは、中毒者にのみ当てはまるのではなく、ケータイ代に多額の支出を
するような、今日の消費の位相に、総じて当てはまるのである。
日本のオタク文化や若者の成熟喪失、成熟嫌悪のような風潮の背景には、
現代は母子関係に分離と清算が曖昧なまま、個人をオトナにしない文化、
「母子」の文化コードが、「父」のコードよりも強くなっている傾向が
あるからだと思う。
例えば、反原発という主張の最強のロジック(情理)とプレゼンスは、
放射能から子供たちを守れと叫ぶ母親たちの姿である。これに勝てる
「父」は多分存在しないだろう。
ここで展開した設論は、特殊ニッポン的な論説ではない。人類普遍の
理説として、私は考えている。
現実とは、「母子」関係と、それを外部から統制し介入する「父」との
三者によるホームドラマの変奏であり、常にその反復なのである。
を元に世の中は流れている、かのように言われる。私は、人間社会とは、
母親と乳幼児の、母子関係の物語、それの変奏だと考えている。
父は不在かと言えば、父とは超越的外部としての、倫理・制度・法・国家
等々として統制的、介入的に存在している。
ところで今日人々は、何故モノを買うか、或いは何を買うのかを考えて
みたい。今日を特徴付ける消費とは、モノの実体への欲望、記号的消費や
アイデンティティをモノに仮託した消費ではない。
消費とは、何かと「つながること」の満足を求めた行動であり、
逆に見返せば、消費とは、自分の現状からの逃走であり、何処かへの出口
を求めての脱出の試みにさえ思える。
つまり、購買や消費とは、何かを金銭に換えて得ることを意味しているが、
消費は、自分の現状から自分を切り離すための、別の系を求めた移動にも
似てたものである。忘我とかストレス解消、癒されたいという言葉で考え
たら分かり易いかもしれないが。
今日的な消費とは、うざい現状からの自分の解き放ちであり、つながるこ
とによる独りからの離脱であり、癒しのような安心と安定感に浸ることが
特徴であると思われる。
このような「つながり」消費への、消費形態の位相変化は、おそらくケー
タイとネットという情報通信ツールの発達と普及が影響しているとは思う
が、それは、ここの議論では本質的な事柄ではない。
ショッピング・アディクション(買物依存症)というのがある。
彼/彼女は、ブランド物のような特化されたアイテムを次々と買い込んで
は、それを手に入れた瞬間から、買った商品に興味や情熱を失っていく。
モノは打ち捨てられ、買物ばかりが次々と続くのだ。
このような依存症は、買うというプロセスに生じる興奮を求めたものと
されているが、私はこんな処に「母子の物語」を感じる。
ここで消費されたのは「つながること」への、回復の試みだと思う。
子(買い手)が求めているものは、遥か彼方に喪失した「母」という安心
と安定の時空、安らぎと癒し、それの仮託的代替物を探しては、「つな
がる」ことであり、象徴的に記せば、「母の乳房」型の消費なのである。
アディクション(嗜癖、中毒)とは、おそらく今では不在である、母の乳房
という禁忌なるものへの郷愁であり、その代替物への衝動と欲望である。
それは、中毒者にのみ当てはまるのではなく、ケータイ代に多額の支出を
するような、今日の消費の位相に、総じて当てはまるのである。
日本のオタク文化や若者の成熟喪失、成熟嫌悪のような風潮の背景には、
現代は母子関係に分離と清算が曖昧なまま、個人をオトナにしない文化、
「母子」の文化コードが、「父」のコードよりも強くなっている傾向が
あるからだと思う。
例えば、反原発という主張の最強のロジック(情理)とプレゼンスは、
放射能から子供たちを守れと叫ぶ母親たちの姿である。これに勝てる
「父」は多分存在しないだろう。
ここで展開した設論は、特殊ニッポン的な論説ではない。人類普遍の
理説として、私は考えている。
現実とは、「母子」関係と、それを外部から統制し介入する「父」との
三者によるホームドラマの変奏であり、常にその反復なのである。