脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「現実」という母子のドラマについて。

2011年07月16日 13時39分52秒 | コギト
しばしば世の中には、男と女という二種類の人間しかいない、男女の関係
を元に世の中は流れている、かのように言われる。私は、人間社会とは、
母親と乳幼児の、母子関係の物語、それの変奏だと考えている。
父は不在かと言えば、父とは超越的外部としての、倫理・制度・法・国家
等々として統制的、介入的に存在している。

ところで今日人々は、何故モノを買うか、或いは何を買うのかを考えて
みたい。今日を特徴付ける消費とは、モノの実体への欲望、記号的消費や
アイデンティティをモノに仮託した消費ではない。
消費とは、何かと「つながること」の満足を求めた行動であり、
逆に見返せば、消費とは、自分の現状からの逃走であり、何処かへの出口
を求めての脱出の試みにさえ思える。

つまり、購買や消費とは、何かを金銭に換えて得ることを意味しているが、
消費は、自分の現状から自分を切り離すための、別の系を求めた移動にも
似てたものである。忘我とかストレス解消、癒されたいという言葉で考え
たら分かり易いかもしれないが。

今日的な消費とは、うざい現状からの自分の解き放ちであり、つながるこ
とによる独りからの離脱であり、癒しのような安心と安定感に浸ることが
特徴であると思われる。

このような「つながり」消費への、消費形態の位相変化は、おそらくケー
タイとネットという情報通信ツールの発達と普及が影響しているとは思う
が、それは、ここの議論では本質的な事柄ではない。


ショッピング・アディクション(買物依存症)というのがある。
彼/彼女は、ブランド物のような特化されたアイテムを次々と買い込んで
は、それを手に入れた瞬間から、買った商品に興味や情熱を失っていく。
モノは打ち捨てられ、買物ばかりが次々と続くのだ。

このような依存症は、買うというプロセスに生じる興奮を求めたものと
されているが、私はこんな処に「母子の物語」を感じる。
ここで消費されたのは「つながること」への、回復の試みだと思う。
子(買い手)が求めているものは、遥か彼方に喪失した「母」という安心
と安定の時空、安らぎと癒し、それの仮託的代替物を探しては、「つな
がる」ことであり、象徴的に記せば、「母の乳房」型の消費なのである。

アディクション(嗜癖、中毒)とは、おそらく今では不在である、母の乳房
という禁忌なるものへの郷愁であり、その代替物への衝動と欲望である。
それは、中毒者にのみ当てはまるのではなく、ケータイ代に多額の支出を
するような、今日の消費の位相に、総じて当てはまるのである。

日本のオタク文化や若者の成熟喪失、成熟嫌悪のような風潮の背景には、
現代は母子関係に分離と清算が曖昧なまま、個人をオトナにしない文化、
「母子」の文化コードが、「父」のコードよりも強くなっている傾向が
あるからだと思う。

例えば、反原発という主張の最強のロジック(情理)とプレゼンスは、
放射能から子供たちを守れと叫ぶ母親たちの姿である。これに勝てる
「父」は多分存在しないだろう。

ここで展開した設論は、特殊ニッポン的な論説ではない。人類普遍の
理説として、私は考えている。
現実とは、「母子」関係と、それを外部から統制し介入する「父」との
三者によるホームドラマの変奏であり、常にその反復なのである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。