脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

フランシス・ベーコン展。

2013年05月06日 10時39分03秒 | 読書・鑑賞雑感
昨日、竹橋の近代美術館でF. ベーコン展を観た。
ベーコン(1909~1992)の絵はあまり好きではないが、以前から気に
なっていた画家の一人である。

気になるというのは、彼はどうして、口を開けた人物画を描くのか
とか、縦に線を走らせて対象を「檻」の中に入れてしまうかのよう
な、そうして我々の視線を隔てさせる画風とか、彼は対象物に何を
感じて描いているのかとか、彼にとって絵を描くことの意味とは何
なのか、等々である。

私は美術館でベーコンを観ても、そんな疑問の答えが見出せなかった。
私には、ベーコンの絵はよく判らない。私が感じたことは、このヒト
は探求だか思索するように、絵を描いているということである。
どの絵も彼の思惟の「断片」「断章」に見えた。彼は言葉ではなく
具象物とその動きを通して考え続け、未だ見えぬ或るものを追い探索
し続けている。それが彼の画業だったという、そんな印象である。

ベーコンの描く人間の裸体は、身体或いは肉体というより肉物体、肉
物という感じだ。頭も骨もない食用の肉のように、人間の裸体が提示
され、またその裸体は、奇妙で不自然に手足が絡まっていたりする。
頭脳とか意識という「統治者」を欠いた肉物のようだ。


我々は身体・肉体を、生まれてから自然と学習されたある習慣で、或
いは頭や意識で動かしている生きている。「生きている」とは普通そ
のようなことだ。無意識に動くという場合でも、ある意識が底に沈ん
で忘れられた、意識されない意識に過ぎない。これらを身体・肉体の
コードと呼ぶならば、我々はコードという「檻」の中を行き来してい
るのだ。

ベーコンの表現には、このコードから身体・肉体を外してみたい、根
源の自由な場に身体・肉体を抛り出してみたいという意思を感じる。
我々はそれによって、より「自由」になるというよりは、その試みを
通して、肉体を持して生きている、「この生」とは何か、という問い
への答えを探り続けているような「画業哲学者」なのか、と思った。

私が今ここに綴っているのは、ベーコンの描いた作品の一部への印象
に過ぎない。私はベーコンについて多くを知らない。大江健三郎はべ
ーコンを高く評価しているが、私にはよく判らない。
ベーコンは生涯、ゲイであったそうだが、男性同性愛者であることが
作品にどのように影響しているのか、していないのか?

ベーコンの眼は人間の生に、何を見、何を捉えていたのだろうか? 
今尚、ベーコンという芸術家への私の気掛かりは、霧が晴れぬままで
ある。



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