脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「老い」への倫理。

2013年04月27日 09時31分24秒 | コギト
ジャズ・ピアニスト:ブラッド・メルドーのCDを聴いていた。
タイトルは『Elegiac Cycle』(1999)。人生はエレジー、すなわ
ち様々な喪失を悼む哀歌/挽歌、の循環なのか。彼はライナーノ
ーツに、哲学的で思索的な文章を綴っている。

「僕のエレジーの試みに最も近いモデルは、ベートーベンの後期
 やシューマンの、メモリー・ミュージックと呼ばれる循環的な
 作品群である。
 冒頭に現れる主題が、発展しながら延々と言及され、最後に変
 形されて戻る。
            (中略)
 物事が永久に終わってしまうというのは錯覚だ。すべては幾度
 も幾度も周期をなして巡ってくる。一日の中で、一つの文化的
 時代の中で、一千年の中で。
 そうして我々がその都度得るものが、神の具現化へと我々を駆
 り立てるのだ。」

我々は何らかの「主題」或いは信念とか物語を、延々と自己言及
的に発展させつつ生きている。そして最後に当初の「主題」の変
形(それが変形とは気づかず)に行き着き終える。この事は、音楽
の形式に限らず、人生という反復も同じである。

最初に与えられた「主題」、いつの時代の、どんな境遇の家庭に
生れ落ちたか等々で、所与の「主題」が決定される。その「主題」
を巡り延々とした自己言及の果てに、最初の「主題」が変相した
場所への帰還、その一連の展開を「運命」と呼ぶなら、我々は、
いつでも、運命の、そんな反復から逃れられない。

では、人間にとって「自由」とは?

「主題」という幅を超え出る自由なんて、有り得ないのか?
私は、そうは思わない。が、また、そのような超越的自由のみに
人生の意味や目標があるとか、価値があるとも思わない。

人間なんて誰もが、エレジーか、パロディか、アイロニー等々の
意に添わない反復を、生きているに過ぎないのかもしれない。こ
れらの反復は、少しずつズレつつ「自身への死」を、喪失=過去
を脱ぎ捨て、新たな再生への踏み台として、あるのかもしれない。

またメルドーは、即興(インプロビゼージョン)について記す。

「即興のプロセスは、死すべき命の肯定のようなものだ。何かを
 創造しているその瞬間に、それは永遠に消え去ってしまう。
 そしてそのことがその力強さなのだ。
 即興は絶えず生まれながらにして死んでいくことによって死の
 問題を解いているかのようだ。
 それは喪失を笑い、それ自身の無常に浮かれる。
 (It scoffs at loss, and revels in its own transience.) 」

喪失=創造という無常、日々の移ろいを即興として生きること。
喪失へと振り返らず、瞬間瞬間を疾走し、自身の生の即興として、
賭けること。私も若い頃なら、そんな即興のプレイヤーに憧れた。

だが、運命に対して、自分の直観的即興に実存を委ね、延々とタ
フに賭けに生きるには、今の私は年を取り過ぎていると思う。若
さ故に行き着く議論にも見える。

全ては変化し繰り返す。だが、その流転(its own transience)の
遥か彼方に、永遠の相を見据える眼を持つこと。それのみが、既
に若くはない者が、「老い」への時間を豊かにする鍵かと思われ
ている。それが「老い」の倫理なのだ。


※ カッコ内引用文の出典は、Brad Mehldau『Elegiac cycle』所収
  冊子中の、Brad Mehldau の寄稿文「人生は短し芸術は長し」。
  訳者:小山さち子氏。引用文の改行は随時引用者。




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