ようやく東京は梅雨明けなのか、暑くなってきた。昨日、近所でセミ
の声を聞いた。7月もあとわずか。いつの間にかの夏である。8月1日
に生活家電と電話の引っ越しをして、役所等に住所変更届を出せば転居
はほぼ終わりである。近所や親戚には、転居の挨拶状も必要である。
何しろ、祖父母の代から3代、90年住み続けてきた土地である。母も
この地で生まれ育ち、私のきょうだいもこの地で生まれ育った。その家
を壊し、地所を全て売却するからには、挨拶くらいしないといけない。
もっとも同じ町の1丁目から2丁目に移るだけなのだが、しかし、我が
家の歴史としては、その歴史のピリオド、終焉にも等しい。
我が家の向かいに、小さなお寺がある。私が幼少の頃、境内で遊んだ懐
かしいお寺でもある。寺は往時の佇まいのままだが、最近老朽化のため
建替えだかで、解体が始まっている。奇しくも同じような時期に、我が
家と同じ運命を辿っていることに、機縁を感じる。
懐かしいものが次々と失われてゆく。歳を取るということは、様々な
「別れ」に晒されることなのだなと思う。人やモノ、物事との「別れ」
が次々と訪れるのが、老年というものなのだなと、最近気づいた。
「別れ」を自然なものとして受け容れられること。運命として、そう観
念せざるを得ない。悲しみの遠くに従容と見送ること。それが老いへの
倫理なのだ。
「別れ」というが、人も物事も、全ては過ぎてゆくだけなのだ。出会え
ば別れがあるのが必定だが、私は自分という人生を流れているだけ、風
景のように全ては過ぎてゆく。永遠に手に残るものなど何も無いのであ
る。でも、出会ったからには「縁」があったのである。悪い出会いとい
うのもあるだろうが、感謝を捧られる縁があるだけ、幸せ、「仕合わせ」
だったのだ。
の声を聞いた。7月もあとわずか。いつの間にかの夏である。8月1日
に生活家電と電話の引っ越しをして、役所等に住所変更届を出せば転居
はほぼ終わりである。近所や親戚には、転居の挨拶状も必要である。
何しろ、祖父母の代から3代、90年住み続けてきた土地である。母も
この地で生まれ育ち、私のきょうだいもこの地で生まれ育った。その家
を壊し、地所を全て売却するからには、挨拶くらいしないといけない。
もっとも同じ町の1丁目から2丁目に移るだけなのだが、しかし、我が
家の歴史としては、その歴史のピリオド、終焉にも等しい。
我が家の向かいに、小さなお寺がある。私が幼少の頃、境内で遊んだ懐
かしいお寺でもある。寺は往時の佇まいのままだが、最近老朽化のため
建替えだかで、解体が始まっている。奇しくも同じような時期に、我が
家と同じ運命を辿っていることに、機縁を感じる。
懐かしいものが次々と失われてゆく。歳を取るということは、様々な
「別れ」に晒されることなのだなと思う。人やモノ、物事との「別れ」
が次々と訪れるのが、老年というものなのだなと、最近気づいた。
「別れ」を自然なものとして受け容れられること。運命として、そう観
念せざるを得ない。悲しみの遠くに従容と見送ること。それが老いへの
倫理なのだ。
「別れ」というが、人も物事も、全ては過ぎてゆくだけなのだ。出会え
ば別れがあるのが必定だが、私は自分という人生を流れているだけ、風
景のように全ては過ぎてゆく。永遠に手に残るものなど何も無いのであ
る。でも、出会ったからには「縁」があったのである。悪い出会いとい
うのもあるだろうが、感謝を捧られる縁があるだけ、幸せ、「仕合わせ」
だったのだ。