脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

私の大学考。

2015年05月04日 22時13分34秒 | コギト
このGW、大学時代の友人たちと集い、御茶ノ水にある母校を訪れた。
広々したエントランスと高層建築の校舎や記念館。綺麗で立派だが、
これらの建物等には我々の時代の思い出はない。これが卒業した大学
かと思うと、何だか肩透かしをくらっているような、雲を掴むような
実感のない心地がした。

私にとって大学とは何であったか。「母校」などと言うが、どこが「母」
なのかと思う。小・中・高・大と学校を思い浮かべたとき、大学が一番
自分から遠い存在体である。それは学生数とか規模とも関係はあろうが、
どこか一方的な上から目線に聳えた、冷淡な壁のような存在感である。

大学とは学費というカネを支払えば、それへの所属と居場所となる空間
の利用権を与えてくれる「家主」のような存在感が私の大学観である。
カネを払えないと、居る権利がないので勿論追い出されるのである。

試験にパスして学費を払えれば、四年間は自由な学生身分というものが
手に入り、卒業すると○×大卒という資格をくれる教育商売の最大手、
親分格が大学(特に私学)であると思っている。

教養や知性が欲しくて、自分で書籍やネット等から学べる人間なら、大
学に行くのはカネと時間の無駄であるかもしれない。今も昔も、大学が
本当に学生に十分な教育を施せる程に機能しているのか疑わしい。機能
してなくとも、資格商売なので日本の社会では通用しているのであろう。

私自身、かつての大学の授業からどれだけ学ぶことが出来たか疑問であ
る。それは、学ぶ私の側がキチンと講義の予習や復習をしていなかった
等のことも認めねばならない。それでも、自分の関心から独学で、書籍
を繙いた勉学経験の方が遥かに教養や知性になっていると思う。

大学は教育機関ではなく、自学自習のための学習環境を備えた学術機関
であり、勉強するのは個々の学生自身の問題であるとも言われるのだろ
うか。大学(私学)というのも、学問の機関だのと偉そうな体裁もあるが、
助成金を貰い学校教育制度にあぐらをかいた資格産業の一種であり、大
学生とは、資格産業のお客さん=消費者に過ぎないのである。

どこ大卒(たとえ東大卒でも)の資格や肩書きなんかよりも、自前での知
性や教養や技術を養い持つ個人や、自分で学んで考える力をもった個人
の方が、ずーっと凄いし、尊敬に値すると思っている。




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