俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

2013-05-27 10:00:08 | Weblog
 右脳・左脳という考え方がある。右脳は視覚的・感情的で左脳は聴覚的・論理的とされている。しかし右手を使えという話ならともかく、右脳を使えと言われても対応できない。私はこんな区分よりも表層的か深層的かの区分のほうが重要だと考える。そして奇妙なことに通常とは逆に表層ほど高度かつ人間的で、深層ほど低級かつ動物的だ。
 こういう構造になっているのは進化のプロセスが原因だ。最初に脳らしきものを獲得した動物の機能は極めて単純で生体反応しかできなかった。それが進化して魚類になると本能に基づく生得行動だけではなく学習行動も備わる。この新しい脳は古い脳の上に乗らざるを得ない。生得行動が不必要になる訳ではないからだ。これは建築物の建て増しと同じことだ。土台を残したまま上へ上へと積み重ねざるを得ないからだ。
 こうして魚類・爬虫類・哺乳類・人類への進化において脳はどんどん重層構造になった。こういう事情から人間特有の知的活動を司る大脳皮質は最表層にある。そして信号(情報)は奥から伝わるので大脳皮質には最後に届く。
 こんな特性だから人間はしばしば不合理な反応をする。初めに原始的な脳が反応して、次に獣の脳が反応し、最後にやっと人類の脳が反応する。つまりまず危険・安全が判定され、次に好き・嫌いが判定され、最後になってようやく良い・悪いが判定される。
 危険に会ってパニックを起こしている人や、何でも好き・嫌いという偏見を通してしか考えられない人は大脳皮質に届く前に判定を終えてしまっている。危険・安全や好き・嫌いという動物的反応が不必要な訳ではないが、人間であるためには事実に基づくこと、つまり科学的あるいは論理的な大脳皮質による思考を行う必要がある。

物への怒り

2013-05-27 09:29:53 | Weblog
 怒りは人へと向かう。物による被害であっても無理やり人為的なものを見付け出して関係者に対して怒る。例えば工事現場で鎖が切れて資材が落下したために被害を蒙った場合、鎖や資材に怒るのではなく担当者や責任者や鎖のメーカーに対して怒る。あるいは車体の故障が原因で撥ねられた歩行者の場合、まず運転者に怒り、その後メーカーに怒ることがあっても自動車に怒ることは無い。
 「罪を悪(にく)んで人を悪まず」という言葉があるが聖人君子でなければそんな境地に達することなどできはしない。窃盗や傷害の被害者はまず犯人に怒る。抽象的な窃盗一般や傷害一般に対して怒ることは無いし、犯罪の原因となった「貧困」に対して怒ることも無かろう。
 それでは「原爆許すまじ」という奇妙な標語をどう理解すれば良いのだろうか。
 アウシュビッツ強制収容所の怒りの対象はナチスであり南京大虐殺記念館なら日本軍だ。では原爆ドームを見て誰に怒れば良いのか、原爆に怒ることが義務付けられている。何とも奇妙な話だ。原爆が自らの意志で飛んで来る筈など無いのだから誰かに対して怒るべきだろう。それとも日本人は「罪を悪んで人を悪まず」の境地に達した聖人揃いなのだろうか。
 我々はあるスローガンとの類似性に気付くべきではないだろうか。それは何と「真珠湾忘るまじ」`Remenber Pearl Harbor'だ。「Japをやっつけろ」という意味で使われた米軍のスローガンだ。
 米軍による占領下で言論統制を受けながら精一杯の怒りを込めて「原爆許すまじ」という`Remenber Pearl Harbor'をもじった標語を作ったのではないか?後の世代が腑抜けにされてこの怒りに気付かないのなら改めてこの標語の素晴らしさを再認識すべきだろう。米軍による無差別大量殺戮にはいかなる正当性もあり得ない。