俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

逆張り

2013-12-09 09:24:54 | Weblog
 もし日本でギャンブルが公認されていたら私は自分が望まない結果に賭ける。例えばサッカーのワールドカップならグルプリーグ予選敗退に賭ける。コートジボワール戦もギリシャ戦もコロンビア戦も日本が負けるほうに賭ける。こんなヘソ曲がりな賭け方をする理由は2つある。
 1つはそのほうが儲かるからだ。殆んどの人は願望に基づいて賭ける。勝って欲しいと思えば勝つというほうに賭ける。あるアンケートでは、日本が予選敗退と予想する人は20%程度しかいないそうだ。
 シードのコロンビアは頭1つ抜けており他の3チームは団栗の背比べでありどのチームが勝ち上がっても不思議では無かろう。従って2位以上になる可能性は1/3ずつと見るのが妥当だろう。つまり予選突破の可能性は30%程度だろう。実際の可能性が30%なのに80%の人が予選突破と考えているのなら、配当率を考えれば敗退に賭けたほうが絶対に有利だ。
 事実と願望は峻別されねばならない。戦時中なら「このままでは日本は負ける」と言えば非国民と非難されただろう。事実に基づいて判断した上で、どうすれば負けないかあるいはダメージの少ない負け方にできるかを考えるべきだ。癌を宣告された患者が「取り消してください」と怒ることがしばしばあるそうだ。事実を認めたがらない人は少なくない。願望と事実はしばしば相反する。贔屓目に見ることを否定する気は無いがそれが贔屓目であることを自覚する必要がある。
 もう1つの理由は危険の分散だ。私だって日本のチームが勝って欲しいと思っている。あわよくば優勝して欲しいとも思っている。しかし願望の逆張りをしておけば勝っても負けても楽しめる。負ければ負けるほど賭けでは勝てるのだから悔しさも少なからず薄らぐ。これは精神衛生上好ましいことだ。

人間の能力

2013-12-09 08:50:57 | Weblog
 人間の能力は「可能性」として備わっているから育成されて初めて発揮される。言語を操る能力も育成されねば発揮できない。もし猿に育てられた子供がいれば鳴き声程度の言語能力しか獲得できない。逆に猿を人間扱いして育てても言葉を覚えない。人間にのみ言語を操る能力の萌芽が備わっているからだ。未開民族も言葉を持ち、閉鎖された地域ごとに文法も語彙も異なるのは言葉を後天的に獲得するからだ。どんなに天賦の才能に恵まれていようとも1から言葉を作り出すことはできない。
 もし狼の中で育てられた子供がいたら四つ足で走り回るだろう。十年も経ってから二足歩行を教えることは難しい。
 人間の能力は完成された形で備わっている訳ではない。正しく育てられて初めて人間としての能力が発揮できる。人間は人間として生まれるのではなく育成されることによって人間へと成長する。
 思いやりや労わりといった心も萌芽として備わっているだけだ。正しく育てられなければそういった人間的感情を欠いた大人になる。残忍な人が存在することは人間性の否定には繋がらない。言葉を教わらなかった子供が言語を操れないのと同じことだ。
 先天的に備わっていない能力が発現することはあり得ない。猿に言葉を教えても習得させることはできない。しかし先天的に備わった能力であろうとも後天的に育成されなければ宝の持ち腐れになってしまう。
 イルカやクジラは呼吸することを親から教わるそうだ。彼らは肺呼吸をするので母親が水面で呼吸をすることを教えなければ窒息死してしまうらしい。水中ではなく地上に住む我々は親から教わらなくても呼吸することができるが、それ以外のことは殆んどが教えられて初めて身に付く。能力とは先天性×後天性であり、どちらかがゼロであればその積はゼロになる。