俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

使い回し

2013-12-13 10:38:12 | Weblog
 先月末にとんかつの和幸が運営する「恵亭銀座店」が「客が食べ残したキャベツやおしんこを使い回した」と報じられた。見出しを見た時は客が食べ残した物を使い回した悪質な事件かと思ったが、食べ放題の皿を何度か使ったとのことだった。これが使い回しとして非難されるのなら、牛丼屋の生姜や定食屋の漬物、あるいはビュッフェ(バイキング)スタイルの料理に至っては丸ごと使い回しだ。これらも咎めたいのだろうか。清潔であることは良いことだがヒステリックになれば消費者の利益を損なう。
 むしろテレビ番組の使い回しこそ問題にすべきだ。先日NHKの夜9時のニュースを見ていたら「クローズアップ現代」で使ったフィルムが殆んどそのまま使われていた。あるいは朝のニュースなら大半が使い回しで、同じテレビ局なら何度でも同じニュースが使い回される。
 逆に、使い回しても構わないと思える「みんなの体操」や「テレビ体操」は毎回新たに収録されているようだ。制作費が安いからだろうがこれは無駄遣いだろう。
 ニュースの語源はnewsだ。古い物を何度も使うならoldsと呼ぶべきだろう。当たり前の話だがニュース番組で同じ映像を何度使おうとも構わない。貴重な映像が唯一であればそれを何度でも放映すべきだ。但し「ニュース特集」と名乗るなら新しい作品であるべきだ。既に放映した作品であるならそのことを断るべきであって、新たに作ったかのように装うべきではない。他の番組なら「再放送」と断りを入れているのにニュース番組だけが平然と再放送をnewsとして放映している。これは偽装だ。
 イソップ寓話に、子供に「真っ直ぐ歩きなさい」と教える母蟹の話があるが、飲食業界の使い回しを非難するマスコミは自らの使い回しの是非について検討すべきではないだろうか。「罪を犯したことの無い者はこの女に石を投げよ」(「ヨハネによる福音書」より)という言葉をマスコミは知らないのだろうか。それともルールを超越した特権階級と自らを位置付けているのだろうか。

ポピュリズム裁判

2013-12-13 10:01:58 | Weblog
 裁判がポピュリズム化しつつあることに大きな危惧を抱く。本来、司法は民意を反映してはいけないものだ。法に基づいて裁かれねばならない。世論は事実よりも感情に支配されているだけにポピュリズム裁判はリンチのようになる。どれだけマスコミが勝手な人民裁判で裁こうとしても疑わしきを罰してはならない。確かな証拠に基づくべきだ。
 日本でのポピュリズム裁判に触れる前に韓国の例を見よう。韓国では戦時中の日本企業による不当労働行為に対する賠償命令判決が相次いでいる。これは実に奇妙な判決だ。賠償請求権は昭和40年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決された」筈だ。従って賠償責任は韓国政府に移っている。それにも関わらずこんな国際的に見て異常な判決が下されているのは国民の反発を恐れているからだ。「民意」に沿った判決を下さなければ非国民と非難されかねない。このせいで韓国が世界中から非難されようとも裁判官の知ったことではない。
 これと同じようなことが国内でも起こっている。裁判官名が公表されているから「民意」に背いた判決は個人攻撃を招く。子供や孫まで学校でいじめられるかも知れない。
 例えば和歌山カレー事件の林真須美容疑者に対する死刑判決はどう考えても証拠不充分だ。裁判官はマスコミと大衆を敵に回したくないから有罪判決を下したように思える。
 11日の柔道の内柴被告の準強姦罪も疑惑の判決だ。強姦か和姦かはかなり微妙な問題であり、この事件は和姦に近い強姦だったと思う。裁判官はマスコミと女性の反発を恐れて控訴棄却にしたのではないだろうか。とりあえず有罪にしておけば責任逃れができる。
 司法を守るためには裁判官名を伏せることも一考に値するのではないだろうか。庶民の望まない判決を下せば人のように非難されるなら裁判官は世論に迎合せざるを得ない。司法の自由を守るために裁判官をマスコミから守ることが必要なのではないだろうか。