「好き」に理由は要らない。異性であれ食べ物であれ音楽であれ、先に好きになる。理由は後付けされるだけだ。
同様に「楽しい」も「幸福」も当事者が勝手に判定することだ。多くの人と同様、私も冬登山の楽しさが理解できない。凍える寒さの中で険しい山を命懸けで登ることのどこが楽しいのか全く理解できない。好きな人はやはり楽しいから登るのだろう。
「好き」「楽しい」「幸福」は全く主観的な感情だ。多分、何らかの理由で脳がセロトニンで充たされるから快適なのだろう。それと比べれば「嫌い」「苦しい」「不幸」は理解可能なことが多い。「怒り」もその反応の激しさ以外はかなり合理的だ。
「好き」は主観的な感情であるために利用され易い。宗教や詐欺に引っ掛かるのはこの不合理な感情に基づく。
人類の救済や先祖の供養のために財産を放棄したり結婚詐欺に引っ掛かるのは「好き」という感情が合理性を欠いているからだ。不合理だからこそ何を好きになろうとも本人の勝手だし、好きであることが快いからアバタもエクボに見える。猫が大好きになれば子供を差し置いて猫に遺産を相続させる人まで現れる。蓼食う虫は合理的な行動をしているが蓼食う人は不合理だ。
「好き」は合理的ではない。本人は合理を超えた超越的なものと思い勝ちだがただの「思い込み」であることが少なくない。好きなことに一生を捧げた筈がとんでもない思い違いのために一生を浪費することもあり得る。
趣味も多くは奇妙なものだ。有益な場合も有害な場合もある。変な趣味は周囲にとっては迷惑だが本人には掛け替えの無い大切なものだ。「好き」は危険な感情だ。好きなものにこそ注意を払う必要がある。
同様に「楽しい」も「幸福」も当事者が勝手に判定することだ。多くの人と同様、私も冬登山の楽しさが理解できない。凍える寒さの中で険しい山を命懸けで登ることのどこが楽しいのか全く理解できない。好きな人はやはり楽しいから登るのだろう。
「好き」「楽しい」「幸福」は全く主観的な感情だ。多分、何らかの理由で脳がセロトニンで充たされるから快適なのだろう。それと比べれば「嫌い」「苦しい」「不幸」は理解可能なことが多い。「怒り」もその反応の激しさ以外はかなり合理的だ。
「好き」は主観的な感情であるために利用され易い。宗教や詐欺に引っ掛かるのはこの不合理な感情に基づく。
人類の救済や先祖の供養のために財産を放棄したり結婚詐欺に引っ掛かるのは「好き」という感情が合理性を欠いているからだ。不合理だからこそ何を好きになろうとも本人の勝手だし、好きであることが快いからアバタもエクボに見える。猫が大好きになれば子供を差し置いて猫に遺産を相続させる人まで現れる。蓼食う虫は合理的な行動をしているが蓼食う人は不合理だ。
「好き」は合理的ではない。本人は合理を超えた超越的なものと思い勝ちだがただの「思い込み」であることが少なくない。好きなことに一生を捧げた筈がとんでもない思い違いのために一生を浪費することもあり得る。
趣味も多くは奇妙なものだ。有益な場合も有害な場合もある。変な趣味は周囲にとっては迷惑だが本人には掛け替えの無い大切なものだ。「好き」は危険な感情だ。好きなものにこそ注意を払う必要がある。