俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

好き

2013-12-15 09:22:50 | Weblog
 「好き」に理由は要らない。異性であれ食べ物であれ音楽であれ、先に好きになる。理由は後付けされるだけだ。
 同様に「楽しい」も「幸福」も当事者が勝手に判定することだ。多くの人と同様、私も冬登山の楽しさが理解できない。凍える寒さの中で険しい山を命懸けで登ることのどこが楽しいのか全く理解できない。好きな人はやはり楽しいから登るのだろう。
 「好き」「楽しい」「幸福」は全く主観的な感情だ。多分、何らかの理由で脳がセロトニンで充たされるから快適なのだろう。それと比べれば「嫌い」「苦しい」「不幸」は理解可能なことが多い。「怒り」もその反応の激しさ以外はかなり合理的だ。
 「好き」は主観的な感情であるために利用され易い。宗教や詐欺に引っ掛かるのはこの不合理な感情に基づく。
 人類の救済や先祖の供養のために財産を放棄したり結婚詐欺に引っ掛かるのは「好き」という感情が合理性を欠いているからだ。不合理だからこそ何を好きになろうとも本人の勝手だし、好きであることが快いからアバタもエクボに見える。猫が大好きになれば子供を差し置いて猫に遺産を相続させる人まで現れる。蓼食う虫は合理的な行動をしているが蓼食う人は不合理だ。
 「好き」は合理的ではない。本人は合理を超えた超越的なものと思い勝ちだがただの「思い込み」であることが少なくない。好きなことに一生を捧げた筈がとんでもない思い違いのために一生を浪費することもあり得る。
 趣味も多くは奇妙なものだ。有益な場合も有害な場合もある。変な趣味は周囲にとっては迷惑だが本人には掛け替えの無い大切なものだ。「好き」は危険な感情だ。好きなものにこそ注意を払う必要がある。

養子

2013-12-15 08:58:29 | Weblog
 養子についてこんな研究報告がある。
 些か乱暴な論法だが、犯罪傾向が高いかどうかで実の親と育ての親を分類する。組み合わせは4種類になる。それぞれの場合に養子はどう育つだろうか。容易に想定できることだが、実の親も育ての親も犯罪傾向が高ければ養子の犯罪傾向も高く、両者が低ければ養子も低い。
 ではどちらか一方だけの犯罪傾向が高い場合、実の親と育ての親とではどちらが決定要因となるだろうか。遺伝重視者と環境決定論者とでは全く逆の答えを期待するだろうが、結果は意外なものだ。どちらも同程度に低いそうだ。
 社会的動物である人類にとって犯罪傾向とは異状なものだ。そんな異状が現れるのは特殊な状況においてのみだ。これはまるで劣勢遺伝子のようなものだ。負の条件が重なった場合にのみ異常な人格に育つ。どちらかがまともであれば養子はまともに育つ。
 私は個人とは遺伝×環境だと思っている。どちらかがゼロであればその積はゼロになる。しかし現実的な話、ゼロは殆んどあり得ない。遺伝が3点で環境が7点であればその積は21点だ。遺伝が7点で環境が3点でもやはり21点だ。ところが遺伝も環境も3点ならその積は9点にしかならない。
 犯罪傾向のある親が実子を育てる場合、この最悪の条件に該当する。これでは負の遺産が相続されてしまう。児童虐待などがあれば子を親から取り上げることが最善の選択だろう。そうすることによって負の条件が二重になることを防げる。
 但し子供を虐待すれば厄介払いができると思わせてしまえば児童虐待の奨励にもなりかねない。親には第三者機関への補償、つまり実質的には養育費の一部負担という形でのペナルティを科すべきだろう。