俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

努力の限界

2013-12-19 09:16:42 | Weblog
 当たり前のことだが努力すれば何でもできるという訳ではない。努力だけで達成できるのは低レベルな競争の場合だけだ。例えば「ガリバー旅行記」をまともに読んだ人は少ないからこれを精読すれば町一番のガリバー通になれるだろうし、後ろ歩きの練習に励めば後ろ歩きのスペシャリストになれるだろう。しかし競争相手が多ければ一流になることは難しい。才能のある人が本気で参入するからだ。
 能力とは先天性×後天性だと思っている。先天性が5の人が10の努力をしても5×10=50だが10の人が10の努力をすれば10×10=100になって敵わない。それどころか「努力できる」ということもまた1つの才能だ。飽きっぽい人なら毎日10時間の訓練に耐えられない。
 一時期、女子マラソンで小柄な名選手が続出した。それは選手層が薄かったからであり、裾野が広がるに従って大きくて足の長い選手が大半になった。基礎能力が同程度であれば歩幅が広いほうが有利だ。
 個人的には小柄な選手が好きだ。これは少なからず判官贔屓だ。今年の新人王のヤクルトのライアン小川投手には私は昨年から注目していた。170㎝の体でどこまでやれるのか期待と不安を持っていたが大活躍したので嬉しかった。それでもダルビッシュ投手に追い付くことは無理だろう。
 逆に小柄な選手のほうが有利な女子体操では、16日に引退を表明した田中理恵選手を応援していた。宙返りでは小柄なほうが有利だ。フィギュアスケートの回転技は横回りなので長身はハンディにはならないが縦回りが評価される女子体操はまるで「小人のサーカス」のようになっているだけに、長身の(とは言えたった156㎝)田中選手は際立ってエレガントだった。彼女がたった1回しかオリンピックに出場できなかったのは、何とも皮肉な話だが、背が高過ぎたせいだろう。

理由

2013-12-19 08:50:04 | Weblog
 事故の原因は問われねばならないが、理由を問うことはできない。犯罪なら理由が見つかるかも知れないが事故に理由は無い。無理に探しても多くの場合、オカルトか言い掛かりになってしまう。
 子供が交通事故で死んだ場合、本人か相手かあるいは双方に原因があるだろう。親が「なぜこの子が死なねばならないのか」と問うのは、原因を尋ねているのではなく理由を求めている。だから「運転手のスピード違反が原因だ」と言っても納得しない。
 人は目的を持って行動する。道具は目的を持って作られるがそれが起こす事故は目的外だ。だから事故の原因はあっても理由は無い。
 人がなぜ死ぬのかということに倫理的な理由を求めるべきではない。その答えはオカルトか詭弁にしかならない。人が死ぬのは事故であれ病気であれ自然科学的な原因があるだけだ。目的論的な理由など無い。
 自然は残酷だ、と言う人がいる。これは自然を擬人化しているから誤りだ。自然はあくまで自然なものであって価値評価の対象外だ。
 簡単な道具であればその目的も用途も明確だ。ハンマーなら使い易いように改良することもできる。ところがパソコンの場合、目的も用途も使い方も分かるがその仕組みはさっぱり分からないブラックボックスだ。だからWhyと尋ねても意味が無い。必要なのはHow toだけだ。
 こんな状況だからWhyの重要性が忘れられつつある。事故の場合、Whyによって理由を問うことは無意味であり、パソコンの場合、Whyは不必要だ。
 Whyと問うことが無意味あるいは不必要なケースが余りにも多いためにWhyの正しい使い方を学ぶ機会が殆んど無い。そのために以前にも増して因果関係と相関関係が混同されている。