俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

汚染

2016-08-02 09:38:59 | Weblog
 綺麗ごと抜きの話、放射能汚染ほど厄介なものは無い。対処困難な事情が少なくとも3つある。
 ①通常の汚染であれば知覚できる。大気であれ水質であれ何らかの異常を五感によって知ることができる。ところが人体は放射線を知覚できない。ガイガーカウンター等の機器が無ければ存在の有無さえ分からない。
 放射線治療を受ける患者は許容量一杯の放射線を浴びる。それでも放射線を浴びたという実感は全く無い。もし身辺に危険な放射性物質があっても身体に異常が現れるまで気付かれることは無かろう。
 ②除染が難しい。除染できるのは表面に付着した放射性物質だけだ。内部まで汚染された物質は物理的あるいは科学的にどんな手を使っても除染できない。自然に減少するのを待つしか無い。
 ③閾値が不明だ。放射線の影響はその時だけではなく数年後・数十年後にまで及ぶ。だからこれ以上なら確実に危険という条件を設定することは可能であってもこれ以下なら安全という閾値を設定することはできない。安全基準など便宜上定められているだけであり本当にそれで安全かどうかなど分からない。
 このように放射能汚染は現代科学のレベルでは対処できない。福島第一原発の跡地がどれほど危険なのか分からないから、できる限り近付かず、近辺の物にはできるだけ触れないほうが良い。
 では原発跡地は放置するしか無いのだろうか。たった1つだけ利用方法があると思う。それは大規模な太陽光発電所だ。
 何度も書いたことだが私は太陽光発電を余り高く評価しない。面積効率が悪くせいぜい電卓や時計の電源としてぐらいしか利用できない。太陽光パネルを設置した土地は光が届かない死に場所になってしまうから植林のほうがずっと良い。だからまともな土地で太陽光発電をすることは国土の最大級の無駄遣いになる。サハラ砂漠のような使いようの無い土地以外では太陽光発電になど取り組むべきではない。
 原発の跡地は利用不可能な土地だ。だから太陽光パネルで覆ってしまっても構わない。そしてこれが重要なポイントなのだが、電気エネルギーであれば放射能汚染されない。物質である限り放射能汚染を免れることはできないが、エネルギーなら汚染されない。エネルギーであればこそ放射線を伴わずに移送できる。